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インマヌエル湘南中央キリスト教会は、神奈川県は茅ヶ崎市、ライフタウンの中にある教会です。

TEL.0467-54-7740

〒253-0006 神奈川県茅ヶ崎市堤89-5

メッセージを読んで頂きありがとうございます。


7月7日・礼拝メモ

ルカの福音書10:11~24

「家を飛び出した弟息子」

「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。」こうして彼らは祝宴を始めた。(ルカ15:24)

<はじめに>梅雨空の中、昨夜は打ち上げ花火の音がした。梅雨開けの宣言かと思いつつ、あるいは海開きの合図であった。次には高齢者の行方不明者の捜索願が報ぜられた。身近な現実を教えられたことです。今日の箇所はイエス様が語られた譬の話で、最も有名な箇所です。最高のたとえ話の場面です。

l  このルカ15章は失われたが見つけ出された事が3つ書かれています。最初は100匹の羊中から、一頭が迷い出て失われたものが見いだされ喜び。二番目には10枚の大切な銀貨の一枚をなくし家中を探し回って、見付け出した時のなんともいえない安堵感と喜び。3番目には父親と二人の息子のたとえ話です。最初は家を飛び出した弟息子が登場し、更に家の後を継いだ兄息子の事が書かれています。Ⅰ/100、1/10、1/2と価値が高くなっています。

l  ある人に二人の息子がありました。二人の息子を持つ父親は大富豪の農家の経営者に匹敵する豊かな父親ですが、財産だけでなくあらゆる面で行き届いた理想的な  父親像です。聖書の神は、全世界、いや全宇宙を創られた主です。人間が造り出した神は洪水のよう多く有っても、私たちを造られた神は、だだ一人です。そこに子がいたら、その子を産んで下さった父母がいるように、私たちが存在していることは私たちを造られた神がそこにいるのです。すでに存在する永遠の神です。豊かな財産を持った御父、雇い人が大勢いる大富豪の父親を想像できるのです。「あなたの神は小さすぎる」と言う説教をした牧師がいました。この神は、80才になったモーセに声をかけて、奴隷であった同胞のイスラエルの民を救い出し、広大な荒野ので40年の旅のリーダーとするために、天から声をかけられた御方です。それが出エジプト3章の「燃える芝の」の体験です。「私はある。すでにそこに存在する。」と言ってご自身を示されました。天地の創造、万物の支配者が、この物語ではここでは二人の息子を持つお父さんとして、豊かに描かれているのです。

l  弟息子(放蕩息子)が、いわゆる生前分与(贈与)と言う権利を要求してお金を作り、家を飛び出してしまった。遠い所とありますから外国と思われます。ユダヤの田舎町と比べて人も多く、誘惑も大きかったに違いない。たちまち放蕩に身を持ち崩して、お金を使い果たしてしまった。それに追い打ちをかけるように飢餓が起こった。貧困のどん底に落ちた彼は、豚の餌まで食べたいと思った。この時彼が気が付いたことが3つあった。

    欲望の果てには何も残らなかったと言うことである。あれだけあったお金もあっけなく消えた。寂しさだけが残った。

    人々の冷たさである。彼のおかげで随分得をした人がいたはずに違いない。だがお金は人の心をつなぎとめるものではなかった。

    大飢饉である。自然の驚異の前に、とても人間はもろくて弱い存在であることを痛感させられたことでしょう。そして創造主である神の前に、恐れおののく自分を発見したことです。これらが、彼が「我に返った」原因と考えられる。

l  一方父親は、毎日家の前に立ち、息子の帰りを期待して、遠くを眺めていた。ある日の事、彼は自分の目を疑った。あれは息子ではないか、やせ細っているが、確かに息子だ。道を力なくとぼとぼと歩いてくる息子を見た父親は、自分の方から駆け寄って、息子を抱きしめるのである。息子は必死になって、父親に謝罪の言葉を言った。父親の口から出た言葉は、勘当でも裁きのことばでもない。僕たちに「最上の着物を着せ、指輪を与え、靴を履かせなさい。」であった。また祝宴を用意せよと言うのである。

      着物を着せることは…父親の赦しを意味し、一言も攻めない。そこにはイエス   様の十字架の赦しがあるからです。

      指輪を与えることは…息子としての資格を回復することを示します。靴を履かせることは、新しい生活の始を宣言することです。

      さらに祝宴をすることは、一人の息子が帰ったことは、家族・友人・知人全体の喜びである事を意味しています。

l  この物語は罪を犯した人間が、罪赦されて(キリストの十字架の血潮に覆われ)、回心する物語です。イエスを信じる時、あなたもこの救いに与かり、神の赦しを得ることができます。また神の子の資格を得て、新しい人生のスタートをさせて頂くことが出来る事のです。


6月30日・礼拝メモ

ヨハネの福音書10:1~18

「良き牧者なるキリスト」

「羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行きます。彼の声を知っているからです。」(ヨハネ10:3~4)

<はじめに>

聖書の舞台となったパレスチナでは牧畜業が中心でした。ですから旧・新約聖書の両方に羊と羊飼いの関係が、目に見えない霊なる神とその御方に導かれる人間の関係として、例えられている事です。7章の仮庵の祭りから話が続きます。7章では生ける川のように流れ下る聖霊の預言を、8章で姦淫の女と指導者たちの罪深さ、9章では、生まれながら目の不自由な人の開眼とその魂の救いについて、10章では、イエスを信じる人が、ユダヤ社会から追放されますが、主は真の牧者として、主イエス様は、羊のために惜しみなくご自分を与えてくださることを物語っています。主は十字架に向かわれますが、それは私たちの罪のために命を捨てることを、つまり御子の自発的な愛を物語る場面でもあります。

l  羊に譬えられた人間は、羊のように集団で生活していて、群れからはぐれては生きて行けない存在です。山羊は遠く置き去りにされても元の住み家に帰る事が出来るとか聞いたことがあります。しかし羊は迷い出たら元の場所に戻れない、どうしても羊飼がついていてくれなければ身の安全が危うい生き物です。人間も羊飼いなる真の神を必要としているのです。(親子で山に入り夢中でワラビを取っている内に迷子になり、父親が子供を探した父親と見つかった時に抱きしめてくれた父親の存在)

l  最初にこの関係を明らかにしてしている人物は、創世記に登場したヤコブです。ヨセフの二人の子供、マナセとエフライムに、手を交差して置き祝福した時に「わたしの先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神よ。今日のこの日まで、ずーっと私の羊飼いであられた神よ。すべての禍から私を贖われたみ使いが、この子供たちを祝福してくださいますように。(創世記48:15)」それから時代はBC1000年、ダビデ王がイスラエルの国の王様になります。ダビデの宝庫と言われる詩篇の中で、最も愛される御言葉として詩篇23篇があります。その冒頭は「主は私の羊飼い、私は乏しいことがありません。」です。8人兄弟の末の子として生まれたダビデは、野原で羊飼いをしながら青少年時代をすごし、晩年に至ってはイスラエルの王として権力を握った時も、神の御前に、自分は羊飼いに養われたている羊であることをとらえ、神はすべての供給者であることを、本能的に知リ得た信仰者でした。

l  羊の名を呼んで引き出す。ユダヤの牧羊者は、羊に名前を付けて呼んでいた。その名を呼んで、群れの中の羊一匹も、一員として認めて愛を注いで下さるのです。イエス様も弟子達を、名前を呼んで導かれた事が記されています。私たちも神様に自分の名前を呼ばれて導かれることです。その事は何にも代えがたい平安と喜びなのです。

l  聖書の中には悪い牧者が登場します。「神である主はこう言われる。わざわいだ。自分を養っているイスラエルの牧者たち。牧者が養わなければならないのは羊ではないか。あなたは脂肪を食べ、羊の毛をまとい、肥えた羊を屠るが、羊は養わない。弱った羊を強めず、病気の者を癒さず、傷ついた者を介抱せず、追いやられた者を連れ戻さず、失われた者を探さず、かえって力ずくで、しかも過酷な仕方で彼らを支配した。」(エゼキエル書34:2~4)当時の指導者に向かっては痛烈な思いをぶつけているのです。

l  主は良き牧者です。羊に先だって行きます。ですから私たちが進むべき道にはイエス様の足跡があるのです。特に苦難や試練の只中にあって、イエス様がすでに体験済みの道であることを知ることは勝利です。その通りに主が試練の中で私たちを、誰よりも良く知り、必要な脱出へ道の導かれるのです。罪を他にしてすべての事を私たちと同様に試みられた主ですから。私たちは「イエス様の声を知っている」います。真の信仰者は、自分の考え、判断、経験、計画がいつも最善とは限らないことを知って、絶えず主の御心を伺うのです。良き牧者に対し、信頼して良き羊になりましょう。「心を尽くして主に寄り頼め、自分の悟りに頼るな。あなたの行く道において、主を知れ、主はあなたの行く道をまっすぐにされる(箴言3:5-6)」。

6月23日・礼拝メモ

マタイの福音書7:114「狭き門から入りなさい」

「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道はなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」(マタイ 7:1314

<はじめに>

先週は上半期の特別集会でした。教会には初めての方もお迎えでき感謝でした。昨日は天に召

l  天国に入るためには何よりもまず、身軽になって、障害物を少しでも減らさなければなりません。引っ越しの時、沢山の身の回りのもので、集めた数々の品物も、全部整理して、持ち物をえり分けなければなりませんが、私たちの天の御国への持参品はただ一つです。神を信じて、心からより頼む信仰姿勢です。まるで幼子のように天真爛漫で、心配したり、くよくよと取り乱すのではなく、単純に信じて委ねることです。「それが出来ないから困るのです」と、いやその通りですが、出来るのです。だれでもが心を神の御前に注ぎだし、祈ることは、その気になれば道が開かれ出来るのです。昨夜は疲れ切って週報を折る事すら出来ないぐらいでしたが、深い眠に導いて頂きました。睡眠は神からの賜物で、障害物を取り除けば、自然と眠りに導かれます。頭を悩ませている問題や課題も、一日の労苦は、一日で十分です、委ねて眠れることができたら幸せです。神様が用意して下さっている場所は、この世に居ながら、天国の前味わいをさせて頂ける不思議な安息の場所です。いっさいの取り越し苦労から解放されて、心と魂を救い主に結びつける訓練をしたいものです。

l  今日は特別集会を終わりましたので、狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道はなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」(マタイ 7:1314)の言葉に目をとめることにします。

l  滅びに至る入口、それは大きな・広い門、そこから多くの人が進んで入って行く道です。それは別に信仰を持たなくても、十分に人生を生きて行くことがでるでしょう。世の中一般の見解に分り易い表現です。一見大きく広い道の入り口に見える。誰でもが簡単に手に入る、言い換えれば自我という人間の欲望のままに生きている人生です。滅びに通じる道は広々としています。多くの人が入って行きます。そこから入る人には、何の抵抗もありません。人々との摩擦もありません、世間に合わせ、世間から憎まれず、むしろ賞賛の声さえ上がる門です。広い門には、人々は吸い込まれるように流されて行きます。人間の所有欲、金銭の欲、名誉の欲、権勢力、快楽など、あらゆる欲望を駆り立てて満足させてくれます。肉の心を喜ばせ、我意を押し通し、この世を愛する門です。それが広い門です。

l  狭い門から入りなさい。今日は狭い門と言われた天国への道から。「入りなさい。」とイエス様は、耳を傾ける人々に、決断を迫って命じています。イエス様は哀れみに満ちたまなざし、権威ある唇を持って、両手を広げて、抱きかかえるような愛の心を傾けて、二者択一を迫っておられます。一見狭い道ですが、イエス様はご自分の身代わりの十字架と、復活の栄光の体をもって、いのちに至る道を示してくださいました。狭さは、自分の栄光・栄誉の実現、つまり自己実現の取り組みとは違います。キリストの示して下さった、キリストの愛に習う道です。神の神聖さのゆえに。細い道かもしれませんが、真の神を信じて、踏み出すことの大切さを現しています。このいのちの門は、決して集団で入るのではなく、良心に光を受けて決断をもって、各自が信仰も持って、踏み入る道です。

6月16日・礼拝メモ

<ペンテコステ、山田隆師上半期特伝>

ローマ人への手紙8:28~30節

「神の愛を信じて」

「神を愛する人たち。すなわち、神のご計画に従って召された人たちのためには、すべ他の事がともに働いて益となることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)

<はじめに>今日はお招きを頂き本当に感謝します。徳竹先生とは小松教会の特別集会にお招きを頂いて以来20年ぶりになります。福島県相馬市に誕生し、高校を卒業してから、上京し自動車整備工となりました。その時、救い主イエス・キリストの映画を見て感動し、この方の素晴らしさに触れて、心を悔い改めて、信仰に立つことが出来ました。それから都心にあった丸の内教会(当教団創設者、蔦田二雄師)の教会に導かれました。献身をして牧師になり50年以上、福音の為に労することになりました。人は救われる必要がある事を、自分の受けた体験を通してそのように思い献身に導かれました。都会の大教会ではなく、地方の教会に遣わして下さいとのことで、奈良県の大和高田市に遣わされたこともありました。現在の宇都宮教会では、45年間奉仕させて頂いています。

l  蔦田二雄師のもとでカバン持ちをしながら、講壇に仕えるなら、それで生命を使い果たしても構わないではないかと教えられ。今にち引退される先生が多い中で、力の出せる限り牧師として、主に仕えます。地方に奉仕させて頂きますと、青年達が都会に出て行く、せっかく信仰に導かれ、教会で育ち、これから教会の奉仕を担う青年達を都心に送りだすことはつらいことです。一向に地方の教会は伸び悩んでいることも体験しました。その中から献身して、今は伝道者になっている器を思い出すと教会に対する見方も変わり、感謝の思いも大きいです。

l  会堂問題も乗り越えてききました。他に建っている不要な建物を分解し、それを運んで、会堂を建ててみようかと取り組んだこともありましたが、途中、教会員の祈りの中から良き大工さん(建築屋)が紹介されて、現在の土地に、新しい会堂が建つことが出来ました。

l  昨年インドネシヤから二人の青年(大学生)が導かれています。かって、この教会から献身された器方も、その青年達の大学から教会に来られて、献身された方々です。私はしばらく丸の内、神学院で蔦田先生のカバン持ちをしながら仕えてきました。牧師と言う仕事は人に仕える仕事です。人に踏まれるような、雑巾のように役立つ面もあります。私たちを救って下さったイエス様は、そのように人に仕えて下さったことです。最初は腹が立つのです。でもその中で、あなたの隣人を愛することを、イエス様から学んで行くのです。神様との会見の場所を持っていますか。押入れの片隅のようなところでも、聖書を開き、お祈りをして、生きた神様と交われるのですから感謝です。そのような場所がなくて、生き生きとした奉仕は生まれてこないのです。

l  一見穏やかに見える時代ですが、人殺しや性的な堕落、取り締まるべき立場の人がそのような罪の中に生きているのです。誰もそのような問題の解決に、聖書の中心である、罪からの救いを伝えてくれません。昔も今も人の心は変わりありませ。世の中は、効率的に生きる社会で進んでいます。クリスチャンの生き様はあまり歓迎されませんが、大切な使命を持っているのです。人物評価よりも効率を考える社会ですが、くじけないで聖書の信仰に生きて、人格を磨いて行くことは、究極的な素晴らしい結果的に結び付くことです。

l  私共は今の時代にあって、神の目から見たら大きな勘違いをしているかもしれません。ノーベル賞に輝く器の中にも、人間の知識が優先して、その人の発言があたかも預言者のことばのように取られてしまう。この世界は最初から、すべてを創造し、収めておられる神の創造の宇宙です。御前に、へりくだって、人格が砕かれ、降参した人間でないと、大きなつまずきをもたらす結果になりはしないか。父と子と聖霊の三位一体の神が創造された美しい神秘な大自然を、今の時代は創造の神への畏敬が失われている時代なのではないでしょうか。時代の指導者、科学者のことばに迷わされてはなりません。イエス様の山上の垂訓にあるように、隣人に対して心の貧しい人、悲しむ人、柔和な人、義に飢え渇き、憐みの豊かな人として生きていることが、キリストがあなたの中に生きている証拠ではないでしょうか。

l  ある花屋さんの証、今の花屋さんは個人のお店で続けてゆく事が難しい時代です。儲かるどころか、損をするような商売ですが続けている中で。その人の心の中には「すべてのものの背後にあり、いつも美しい花を咲かせて、生きて働く神の恵みを信じて」心が変わったのです。その表情が、そばに立っていた私にも、はっきりとわかり、驚くばかりでした。「神を愛する人たち。すなわち、神のご計画に従って召された人たちのためには、すべ他の事がともに働いて益となることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)

 

6月9日・礼拝メモ

エゼキエル47:112節

「神殿から湧き出るいのちの川」

「この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、その水が良くなるからである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。」(エゼキエル47:9)

<はじめに>ペンテコステの聖日を迎えました。「聖霊があなた方の上に望まれると、あなた方は力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらには地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒の働き1:8)この聖霊の力は第一に個人的に神の救い、魂の救いをもたらす力です。人の助けばかり期待している私たちが、神の力をあてにする第一歩を踏み抱いたのが救いの体験です。人の助けに勝る神の助けは底知れない深みを持つ偉大な力です。その事を信じることが出来ますか。第二には聖霊の力は教会をきよめ活性化する力です。神の教会の底力がむなしく、失いかけてます。今の時代に本当に必要な力は経済力でもなく、軍事力でもなく、真の神を信じて祈る教会の底力です。あなたも教会の祈りの力に加わって頂きたい。よろしくお願い致します。第三に聖霊の力は世界に向かって宣教の働きを担う力となります。どの時代も宣教に安易な時代はありませんでした、どの時代も生き抜いた人たちが喜びと、感謝の証をしてきたのは事実です。その人の中で、命がけの宣教に情熱を燃やされた人たちが、その人生が勝利に導かれて来たのは本当の事です。今の時代に必要なことは、積み上げた薪(石炭)に火が付くことです。聖霊が炎のごとく天からご降臨下さったのがペンテコステの記念日でした。

l  ペンテコステは聖霊の就任式。

3つの印が伴って、新しい時代の幕開けとなったことが使徒の働きの2章に書かれています。祈りに集まっていた人達の上に、第一に、激しい風の吹き来る如き響きが起こった。その音は突然やって来て、直ちに、最高潮に達したようである。教会と世界に対して、内的、神秘的、霊的な力を示している。聖霊の強い熱心さが現れています。第二に、弟子達の上に留まった、火のように分かれた舌が 弟子達の上に留まった、元は一つからホーク状に分かれて、集まっていた弟子達一人一人の上に留まって、彼らの魂を貫通して行きました。それは旧約のモーセがシナイ山で律法を授かった時に、主は炎の中に下った有様のようでした。聖霊の働きは、きよめ、力付け、変貌をもたらす神的パワーの象徴です。第三に、他国の言葉の賜です。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろな言葉で話し出した。この印は、聖霊の実際的な働きの開始を意味しています。理解することのできる自分の国の言葉で、メッセージを聞くことができたのです。言葉を混乱させる(創世記11章バベルの塔)ことも、言葉の壁を解くこともできるのが聖霊です。今日はその記念日を迎えています。

l  エゼキエルは祭司から預言者に召された器です。神殿と神殿に仕える祭司の務めを十分に理解できる器でした。先週は聖霊の働きが川の流れのように、私たちの心に注ぎ込まれる、神の祝福が先週は同じエゼキエル書の37章から枯骨の谷の話をさせていただきました。散乱している枯れ果てた骨が散らばっていた。誰も葬ってやることもなく野ざらし骨が生き返る幻でした。しかし時に、神様の方からエゼキエルに語りかけた第二の幻は、今日は聖霊が川のように砂漠に向かって流れ下る幻です。

l  ところで聖霊の川は聖書全巻を通して流れている。エデンの園でも、ヨハネ黙示録22章の新天新地でも、そして幻の神殿と呼ばれた預言者エゼキエルが見た幻の神殿でも、豊かないのちの川が流れているのです。彼の見た幻の川は1000キュビト、約500mを計るごとに、小川、渓流、泳ぎのできる人でないと渡れない河川、そして海に注がれることが、瞬く間に展開する幻です。神殿の基から東に向かって流れていた。東から陽が登り、まばゆい反射がされる川の幻です。

l  旧約の神殿では、2000年の歴史をかけて動物のいのちが献げられて来ました。しかし新約の恵みはただ一回の、ただ一人の神の御子のいのちが献げられて、旧約の儀式に終止符が打たれ、信仰によって神の御子のいのちを、死にたる心に注ぎ込み、その周りには川の両岸に流れ込む死海に命がみなぎる幻です。幻の神殿、その内容は詳しく、寧に、良くもこれまで念入りに調べた尽くしたものかと思うほどのです。無味乾燥な聖書の地味な部分ですが、忍耐深く読み進みますと、このいのちの川にお目にかかります。あなたもこのいのちの川を必要としていませんか。

 

6月2日・礼拝メモ

エゼキエル37:114

「枯骨の谷を行き巡って」

主は私に言われた。「人の子よ、これらの骨は生き変えることができるだろうか。」私は答えた。「神、主よ、あなたはよくご存じです。」(エゼキエル37:3」

<はじめに>6月に入りました。半年間守られたことを心から主に感謝します。教会は病と老いとで、戦いの中に直面しています。私たち導いて下さる神様は生きて働いておられます。目を高く上げて、偉大な主イエス・キリストの恵みの器に、それぞれが成長させて頂きましょう。いよいよ来週はペンテコステ聖日を迎えます。藤沢の借家時代は、大きな声で賛美を歌うと二階から「うるさい、静かにしろ」と足踏みの音がして、文句を付けられたと聞いています。今は大きな声は出して賛美を歌うことができます。病は気からと言う言葉があります。まずは主にお願いしましょう。神様あなたはわたしの病むのをご存じです。どうか私の体に触れていやして下さい。まだまだ、この世に旅路は長いのです。使命が残っています。助けて下さい。早天の時間、朝日に輝くステンドグラスを眺めていたら、再びこの場所で早天は持てるのではないだろうかと希望が出て来ました。

l  今日はエゼキエル書からメッセージです。枯骨の谷、骨は腐れる部分のない状態ですが、その骨が納骨されたのではなく、野ざらしで散乱している姿です。私たちはよく、火葬場で亡骸がお骨に変わった時は、誰しもが、この人の人生は終わったこと否応なしに認める厳粛な時です。

l  預言者エゼキエルは聖霊の預言者と言われます。イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、そしてダニエルと預言者が登場します。彼らはその心に神様からの預言の言葉を授かりました。イザヤとエレミヤは、御父と御子の預言者、(一般的にイザヤは御子、御父はエレミヤ、その使命を逆にしてイザヤは御父、イエス様の姿はエレミヤにていることか御父と考える人もいます)しかし、例外なくエゼキエルは聖霊の預言者として呼ばれています。それは聖霊の働きが顕著に記されているからです。この枯骨の記事も「聖霊に預言せよ」と命じられています、聖書の中でも有名な箇所であります。

l  神様は預言者エゼキエルの思いの中から信仰を引き出すために、声をかけられました。「人の子よ、これらの骨は生き変えることができるだろうか。」それに対して、エゼキエルは神様に期待して答えました。「神、主よ、あなたはよくご存じです。」エゼキエルはが祖国から離れて、連れ去られたバビロンの都の傍ら、ケバル川のほとりに、捕囚の民とともに暮らしていました。彼の偉大な預言者としての霊の力は、エゼキエル第一章の不思議な4つの顔を持つ天使(生き物)の幻を見たことによります。

l  主は私に言われた。「これらの骨に預言せよ」干からびた骨よ、主の言葉を聞け。(4節)この有名な干からびた骨が、再び会い連なり、筋が付き、肉が生じ、皮膚がその上を覆っていくという強烈な幻です。これは死人の復活のありさまの描写とも思われる。枯れ果てた状態から、もう一度、魂のよみがえり、心のよみがえり、実際に希望を失っていた彼ら自身が、70年後に祖国に立ち返ること。彼らの姿からは想像もつきませんでした。でも神様は時代を動かし、国のリーダを変え、イスラエルの国は再建が許されたのです。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」マタイ1926に記されている言葉の通りです。あるお金も血の青年、しかも品行公正、立法を守る青年に、イエス様は「貧しい人に施せ、そして私について来なさい」と命じられた時、イエス様について行くことはできず立ち去ります「金持ちが救われるのは、ラクダが針の孔をくぐることより難しい」しかし神には、不可能を可能と変えてくださるのです。

l  そのとき、主は言われた。「息に預言せよ。人の子よ、預言してその息に言え。『神である主はこう言われる。息よ、四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹き付けて、彼らを生き返らせよ』」(v9)聖霊に向かって預言せよと言われているのです。息、風、霊は同じ語源で、聖霊を証しすることです。そして、この御霊が死にたるものを、生かしてくださっているのです。たとえ人間的な組織が整えられ、機構を整備し、規律を正しても、その中に息が吹き入れられなければリバイバルは起こらない。「息よ、四方から吹いてこい」そうです。エゼキエル書を解くカギの言葉は「主の栄光」です。はじめの11章までには主の栄光は12回出てくる。その後43章までは出てきません、再び43章で出てくる.。幻の神殿、神の栄光が満ちていたことでしょう。途絶えていた聖霊が再び、顕著に働き始められたのです。聖霊に心を明け渡し、聖霊に満たされよう。

 

                                                                             

5月26日・礼拝メモ

ヨハネの福音書16:1~16節

「罪・義・裁きについての見解とは」

「その方が来ると、罪について、義について、裁きについて、世の誤りを明らかになさいます。(ヨハネ16:7)」

<はじめに>急に夏日に変わり気温が高くなりました。神学院ではさつきからバラが咲き始めました。バラは一年中咲きますが、春先のばらの花は最高です。先週は咲き始めた枝を持ってきましたが、今日は残りの部分です。神学院の南側の斜面を「バラ園にする」と取り組んだ神学生がいました、放課後こまめに手入れをして、バラを育てていました。今日もバラの花に勝る救い主イエス様の麗しさ見つめて参ります。今日の箇所は大変有名な言葉です。そしてその意味している内容は大きくて広いものです。主イエス様が後に遣わされる聖霊のこの世に対する働きを、三つにまとめてくださったからです。それは罪の問題、救いの問題、裁きの問題です。

第一に、罪について

聖霊は罪を認識させてくださいます。罪とは神様の方から見たら、私たちが的を外してしまうことです。かって若いころ、ゴルフ場でアルバイトをしていた時がありました。冬はスキー場、夏はその斜面を生かしてゴルフ場に代わる、平地でない山岳ゴルフ場でした。そのコースの中で、ホールインワンが出そうな短いコースがあった。その高台から打ち下ろして、芝生のグリーンに乗せることはベテランの人でしたら可能でありますが、いまだにホールインワンを体験したことはなかったのです。ところがある日、若いオーナーが、ホールインワンの快挙を達成しました。そのニュースは一気に町に伝わりました。後から新聞記者や報道陣がやってきて、後からそのホームを写真に収めると言うのです。いま考えてみると、本当かどうかわからないような出来事でしたが、皆さん満足していました。

罪とは、神の愛を信じて受け入れない心の頑なさです、そこで神様はかけがいのない御子イエス・キリストを送って下さいました。神が私たちを愛していることがわかるためにです。罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反していることです。イエス様はモーセの十戒を見事に要約して下さりました。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知力を尽くして、あなたの神、」主を愛しなさい。(第一の戒め)」「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい(第二の戒め)」そしてそのように地上に罪なき愛なる御方として歩まれたのがイエス様です。ですからこのイエス様を信じて、受け入れることは人生の的を得た生き方なのです。罪とは素直にキリストの愛を受け入れないことです。人の心は御子を素直に信じ受け入れない罪の性質があります。

第二 救いについて

   聖霊は罪を認識させて下さるだけでなく、私たちの救いのために、キリストの身代わりの十字架を示して下さいます。「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去ってゆくことは、あなた方に益になるのです。」「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなた方はわたしを見なくなるからです。」イエス様はこれから十字架に向かわれます。まだ身代わりの死を受けようとしてします。肉体を通して臨在を現したイエス様が、弟子たちの肉の目に見えるイエス様から、復活体によみがえられたイエス様を信じる信仰へと導かれるのです。聖霊は弟子たちの心に罪が赦されたこと、神の子生まれ変わったことを認識させて下さるのです。罪のゆえに悲しみに沈み込んしまうのではなく、罪赦された喜びに満たして下さるのです。

第三 裁きについて

「そして、人間には、一度死ぬこと死後に裁きを受けることが定まっている。」(へブル9:27)。と書かれています。人間社会は真の神だけでなく、御父なる神に真っ向から敵対するサタンの支配のもとにあることも記されています。サタンは私たちを誘って、愛なる御父を疑わせて、天国への約束を空しいもののように思わせます。キリストの十字架は、そのようなサタンの巧妙な悪だくみをも覆して、信じ者は誰でも、その人のすべての罪を赦して下さいます。神の裁きの御前に立つ時、私たちの側に立って、ご自分のいのちを掛けた十字架を持って、弁護して下さるのです。天国は罪赦された人たちが、御父御子をほめたたえ、喜び平和に満ちているところです。聖霊はその事を信じる私たちに教えて下さるのです。

 

5月19日・礼拝メモ

ヨハネの福音書15:1~17節

「主にとどまるとは」

「わたしにとどなりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結びことは出来ないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。(ヨハネ15:4)」

はじめに

l  今日は神学院創立記念、70周年を迎えての記念礼拝を持ちます。丸の内のビルの一室から出発して、浦和、横浜の現在に場所が移りました。21日の午前の式典には近隣の教会の信徒の方々も参加してください。とのお招きがあります。

l  神学院の森がずいぶん変わりました。緑地保全地域ですが、住宅地がすぐソバまで接近しています。学院の雰囲気は街の中、しかも緑に囲まれて環境的に整えられた場所となりました。古い建物は改築され、リニュウアルされてベテルハウスが出来ました。創世記の族長ヤコブが信仰に導かれたベテルと言う土地の名前を取ってベテルハウス、研修センターとして備えられました。隣では商大の校舎が、学生の減少で、一ヶ月以上をかけて、解体作業がされています。旧女子寮は解体されること無く、新しく生まれ変わりました。今年から、高台の隣接地がレンターカーの会社に売却されて、沢山の車の保管場所となりました。先日その社長さんが「必要とあればいつでもお貸しできます。今後ともよろしく」と、挨拶に来られました。これからの伝道に備えられているのかもしれません。

l  今日は素朴なイエス様のブドウの木と枝のたとえから、イエス様の教えに目をとめてみます。ここには「とどまる」と言う言葉が12回出てくる。その内容を3つにまとめました。

l  第一にキリストのことばにとどまる。

「わたしのことばがあなたがたにとどまっているならなんでもほしいものを求めなさい。そうすればかなえられます(7節)。」イエスの言葉の中にとどまることです。今日は詩篇27篇を交読しました。ダビデの窮地を救ってくださった神の言葉をもって主を仰ぎました。「主は私の光 私の救い。だれを私は恐れよう。主は私のいのちの砦。誰を私は怖がろう。(1節)」息子のアビシャロムの反逆にあったと時だと推測します。敵は愛する自分の子、自分の愛する子が敵となって攻撃を仕掛けて、ダビデは側近の者たちと着の身着のままで都落ちをして行くのです。周りからヤジられて、好き放題のことを言われて、難を逃れて行きます。ダビデは好き好んで波乱万丈の生涯を送ったわけではありませんが、神が一等星のように、輝くために、たくさんの罪の泥沼を潜り抜けて、その罪を許されて、神の器に練り上げられたことです。この様な窮地の中で彼の目の付け所は「私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを、主の麗しさに目を注ぎ、その宮で思いを巡らすために。(27:4)このことを新約的にはキリストにとどまり続けることでしょう。ダビデはいつも、彼の神の前に立ち生えることが許される器であった。彼のように勇気を与えて頂こう。

l  第二にキリストの愛の中にとどまる。

「父がわたしを愛したように、わたしもあなた方を愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。(9節)」です。もう一度豊かなブドウ園の農場を思い浮かべてみましょう。農夫は御父です。思い切って刈込をなされる。イエス様はブドウの幹として枝を支えていますが、救い主イエス様は真のブドウの木(へブル人は旧約聖書の良き模範者とはなりえませんでした)ですから、あえて主ご自身は、真のブドウの木と言われたのです。私たちも、キリストの十字架と復活、永遠にかかわることを第一優先にして、スリムになって、信仰の高嶺をめざそうではないか。

l  第三にキリストの戒めの中にとどまる。

「わたしの戒めにとどまりなさい。(10節)」です。互いに愛し合うことです。私たちお互いにどのような関係を持つべきでしょうか。互いに愛し合うことは人体に例えると、全身の細胞が脳の指令に対して正常な反応を示すことです。それ以外は異常であり、がん細胞的な危険をもっています。「互いに」と言う言葉を集めてみました。<否定的に>3つ、互いに裁き合う、互いに偽りを言う、互いに悪口を言ってはならない。このようなことを続けると滅びてしまう。

<肯定的に>8つ、互いに赦し合う、互いに戒め合う、互いに励まし合う、互いに徳を立て上げる、互いに受け入れる、互いに尊敬すべきです。ああ麗しい品性的と、また伝道の実を豊かに結ばせて頂きましょう。

 

5月12日・礼拝メモ

ヨハネの福音書14:15~24節

「助け主、真理の御霊」

「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与え下さり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにして下さいます。この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなた方はこの方を知っています。この方はあなた方とともにおられ、また、あなた方の内におられるようになるのです。」(ヨハネ14:16~17)

<はじめに>

l  今日は母の日、子供を慈しむ母がどの家庭にいることは何と幸せなことでしょうか。母が自分の産んだ子供に対して注ぐ愛は、自分のいのちを注ぎ出し、惜しみなく与える愛です。それは惜しみなく注いで下さった神の愛とよく似ています。キリスト様が私たちに注いで下さった愛はそういう種類の愛です。私たちが主キリストを信じて救われますと、イエス様はご自分の子と認知して下さいます。そして、その生んだ我が子のために、母親の愛のように、更に量的には比べ物にならないほど、世界中の信仰者に対して、普遍的な犠牲的な愛を示されるのです。勿論信じない時も注がれてきたのですが、実は気が付かなかっただけです。神(御父)と御子の交わりの中に、加わらせた頂いた事、御父と親子の関係を結ばせて頂くのが信仰者の救いの体験であるからです。

l  「神は愛です。ですから私たちは互いに愛し合いましょう。」とは主イエス様が私たちに語って下さった事です。この愛は誰にも必要不可ないのちです。この世に生まれた幼子は勿論、成長盛りの中高生や青年達も、働き盛りの子育て真っ最中のお父さんお母さんにも、年老いて寂しくなって行く高齢者にも、この愛は必要不可欠ないのちです。キリストは神の独特無比の独子です。御子であるキリストが信頼と愛を込めて「わが父よ、アバ父よ」、と祈りの中でお呼びしている方は、唯一の神です。全世界のすべての造られたものを相手にして、目にみえるもの、目に見えないも、すべてを造られた天地創造、万物の総支配者、維持者であられる神を、御子キリストは、天の父とお呼びしています。更に、いのち溢れた戒めを語っています。「わたしはあなた方に新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたもわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(13:34~35)」

l  今日の聖書の箇所はイエス様が数時間後に、十字架に架らけれる直前の晩餐会です。もう一人の助け主<パラクレートス>「助言者、とりなす者、弁護者、激励者、援助者」を約束して下さいました。子供が成長して成人に至るまで、母親は生きている事でしょう。普通はそのように愛なる神は配慮してくださいます。でも時としてそのように行かないハプニングがおこります。事故や病気でやむなく幼子を残してこの世を去らなければならないこともあります。でもそのような時に、母親に変わてくれる方が顕れたら、本当に助かります。イエス様がご自身に代わる、ご自身とは別の助け主をここで紹介しているのです。十字架に向かわれるイエス様は、子供(信仰者)を置き去りにして世を去ることはできません、自分と同質の自分に代わる助け主を、紹介してくださっているのがこの場所です。

l  その御方は真理の御霊です。キリストの御霊です。救い主イエス・キリストのうちに住んでくださっていた御霊です。イエス様の誕生の時も、処女マリヤに通して、この世に誕生させて下さったのは御霊です。ヨルダン川で洗礼を受けた時も、聖霊は鳩の形をとって現われて下さいました。十字架で私たちの罪の身代わりの死を成し遂げ、死にて葬られ、死人の中から復活されたのも。よみがえらせてくださったのも御霊です。終始イエス様と共に働き続けた聖霊が、今度は、残される私たちの心に住んでくださり、真理を解き明かし、イエス様が救い主である事実を、証出来るように、ペンテコステの恵みを下さったのも聖霊です。弟子たちはこの聖霊なる御方を心中に頂き、聖霊に満たされて、無学の凡人が、イエス様の十字架とよみがえりの証人として変えられたのです。イエス様は、世が与える平安ではなく、イエ弟子たちの心中に、イエス様の臨在を、形見として残されたのです。

 

5月5日・礼拝メモ

ヨハネの福音書14:1~14節

「わたしのいるところにあなたも」

「わたしが行って、あなたがたのために場所を用意したら、また来て、あなた方をわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなた方もいるようにするためです。

(ヨハネ14:3)

<はじめに>

l  今日は子供の日です。連休もあとわずかとなりました。十分な休息もとれたでしょうか。今日は一番たいせつな聖書の箇所からメッセージと言うことで、悩みのゆえようやくまとめてみました。聖書の箇所は受難週、最後の晩餐のテーブルスピーチです。このヨハネの福音書は共観福音書のマタイ・マルコ・ルカの福音書ができてから後、補足的に書かれたものですが、弟子達と最後に過ごした晩餐ほど、大切な聖書の箇所はありません。

l  「神を信じる」ことは当時の人々には問題になることはありませんでした。しかしそれに続く、「わたしを信じなさい」と言う言葉には。ユダヤ人指導者達は、煮えくりかえるような憎しみをぶつけていたのです。しかし主イエス様は淡々として、そこを逃げも隠れもしないで進み行かれたのです。主は十字架のために受ける自分の苦痛もわすれて、口を開かれたのです。当惑している弟子達を慰め、励まし、また彼らの目を天に向けさせて望みをお与えになったのです。困難と試練があっても、信仰と希望のあるところには勝利が来る。この天上のご奉仕が完成したら、私たちを天に携え上るために、再びこの世に迎えに来られる。これは主イエス様の世の締めくくりの再臨の時を示しています。主は、私たちを天の御父のところに運んで下さる唯一の道です。

l  天国について

イエス様は天国のことをわたしの父の家と言っています。イエス様にとって故郷の御国です。御父の臨在と支配の権威に満ち、御父と愛を満喫される所です。そこに私たち信仰者を招いて、共に交わってくださる、くつろぎのスペースです。小さなスペースではなく、信仰者にとっては途方もない、大邸宅を備えて招いて下さると言うのです。だれも天国を見た者はいません。天国に行って帰って来た者もいません。けれどもイエス様は何の躊躇もなく、私たちが住むべき住まいを用意して下さると言うのです。「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。あなた方のために場所をそなえに行くのです。」更に、あなた方のために場所を備えたら、また来て、あなた方をわたしのもとに迎えます。これはイエス様が再びお出で下さる再臨のことを言っています。イエス様が来られたら困るような生活でしたら、大変ですが、信じて主を受け入れた心は、この再臨のことがあるから、人生に希望と大きな期待を持ち、進むことができるのです。

l  道・真理・いのち

イエス様は「わたしは道を示します」、「わたしは真理を教えます」「わたしはいのちをあたえます」と行ったのではなく、イエス様ご自身が、ご自分の生き様を通して、御父に至る道、御父を知る真理、御父の持っていられる永遠のいのちなのです。

主イエス・キリストを知ることは神を知ることであり、地上で彼を信じることは、天国の御住まいを備えられた者です。おそらく、この御言葉を通して、信仰に導かれた方が多いと思います。20世紀に活躍した伝道者ビリーグラハム博士は、青年の頃、信仰に導かれながら、このお言葉の前に座って、この言葉を語る人は「真実な方か、大嘘つきか、どちらか違いない」それを突き止めるために聖書を読み出し、ついに彼こそ真実な神が遣わして下さった御子であること信じ受け取り、伝道に立ち上がって、世界中の人々を相手にメッセージを語る器になりました。

l  5月2日はわたしの入信記念日でした。灰色の都会の空と、むなしい心を持って、有楽町で下車した私でした。誰かと待ち合わせたのではなかったのですが、でもその日、最高の愛の化身、わたしは道であり真理でありいのちである方とお会いできた記念日となりました。あの時から今日まで47年間、大牧者に導かれて来ました。本当に感謝です。

4月28日・礼拝メモ

ヨハネの福音書13:1~11節

「主は弟子の足を洗われた」

「イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れて、弟子達の足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。」(ヨハネ11:4~5)

<はじめに>ゴールデンウィーク、長い休みが続きます。この休みに出入りが守られますように、また聖日礼拝が豊かな恵みの時となりますように。

l  ルカの福音書では、復活の主が旅人の姿で、エルサレムの都からエマオの村にへ向かっている弟子達に近づき、エルサレムの都で起こった出来事について、「キリストは必ずそのような苦しみを受け、栄光に入るはずだったのではありませんか」と、ご自分について聖書全体に書いてある箇所を解説してくださった。その時、彼らの心は内に燃えていたとあります。日が傾いたので、その旅人を引き留めて夕食に招いたことです。その時、感謝の祈りとパンを裂くその御姿から、生前のイエス様が、生きて目の前にいることがわかった。信じることができた。そこで旅人の姿で現われた主は消えてしまいすが、信仰によって復活の主イエス・キリストを信じることができたのです。エルサレムの都に向かい復活の主のご顕現を証しする者となったのです。人類に与えられた聖書を、主の十字架と復活を信じる信仰に導かれて行きましょう。

l  教会の歩みもイースターを超えてペンテコステに向っています。今日はもう一度、最後の晩餐の席上に目を留めてみましょう。ヨハネの福音書では過越の祭が、4回で来ると言われています。最後はイエス様が十字架に付けられた時です。今日心にとめたいお言葉は、「彼らを最後まで愛された」極みまで愛された。そのご愛とはどんなものであったかを知らせて頂きたいと思っています。この時の弟子たちは「自分達のうちで誰が一番偉いのだろうか」と言う議論が持ち上がった。(ルカ22:24)また、イエス様は誰を一番信頼しているか?と、そのようなことが雰囲気として漂っていたことがわかります。もう最後の晩餐であるのに、主の弟子たちの心は、人間的な競争心、優越感、支配欲というものが深く巣作っていたのです。

この食事の席上何が起こったのでしょうか。主イエス様は「イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れて、弟子達の足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。」(ヨハネ11:4~5)7重の謙遜の姿を示されました。足を洗うことはその家の奴隷の仕事です。弟子たちは交代で足を洗っていたかもしれません。誰もそのようなことをしませんでした。しかし、イエス様はまっすぐに席を立って行動に出たことです。

l  何よりも主イエス様は愛の模範を身近に示された。弟子たちは誰が、主イエス様が足を洗って頂くことは想像もできないことでした。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために来た。」この後、24時間以内に十字架の刑罰を受ける直前まで時が迫っている中で、主イエス様はご自分の愛を、余すところなく弟子たちに注いで下さいました。職場に一人残って、残務整理をしなければならないような時に、このイエス様の姿を思い出して、勇気と力を与えて頂きましたら幸いです。神の愛、アガペーの愛は、相手がどのようであれ、自己犠牲をいとわず注ぐことのでる愛です。

l  イエスを裏切って、銀30を受け取り、イエス様を離れて行くユダさえも、その罪を個人的な攻撃の矢面にせず、彼の人格を傷つけること無く、最後まで弟子の一人として、このアガペーの愛を抜かれたのです。弟子の足を洗って下さったイエス様の御愛は、「主は罪を憎みます。しかし、罪人を愛され、他の弟子たち同じように足をあらってその露を拭き取られた。」事です。十字架を前にし、切迫した中で、12弟子をこよなく愛し、余力を残さずに愛を注ぎ込んで下さいました。

l  人間に取って隷属することはつらいことですが、自発的な愛こそ、隠れた偉大な力を表します。イエス様の場合は、尊厳に満ちている神の子として、本当に麗しい事であったことでしょう。それは御子が「御父が万物を自分の手に渡されたと言う特権を自覚し、実践された神の愛です。ですから、神的な教師としての、権威を持って、後に残される弟子の足を、その汚れから脱われたのです。私たちも主にきちんと足を洗って頂き、世から聖別された者としての自覚に立ちましょう。

4月21日・礼拝メモ

マタイの福音書28:1~20節

空の墓と主のご顕現

御使いは女たちに言った。「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分っています。ここにはおられません、前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。・・・」(マタイ28:5~6)

<はじめに>今日も受難週を越え、イースターの朝を迎えています。地上おいてあと何回、この記念日を迎えることができるかと考えると、この記念の意味を少しでも深めて参りたいと思います。

l  今年のイースターを迎える前に、フランスのパリにあるノートルダム大聖堂が火災に見舞われて、大聖堂の一部が失われたと言うことです。世界の各地に、教会堂がある、しかしその会堂の礼拝者が少なくなってきているとか、このままでは復活された主を迎える場所として申し訳ない限りです。小さくても復活の主をいつでも迎えられる教会、そのようなリバイバルを待ち望む群でありたいと思っています。今年のレント(イースターまでの40日間)の営みの中で、マタイの福音書から語ることが多かったので、復活のメッセージもマタイの福音書に取り組んでみました。

l  福音の二大事実

私があなた方に最も大切な事として伝えたのは、私も受けたことであって、次の事です。「キリストは、聖書に書いてある通りに、私たちの罪の為に死なれた事、また、葬られた事、また、聖書に書いてある通りに、三日目によみがえられた事、それからケファに現われ、それから12弟子に現われた事です。・・・そして最後に、月足らずに生まれた者のような私にも現われて下さいました。」(Ⅰコリント15:1~8)

キリストの十字架と復活は、福音の二大事実です。キリスト教信仰の根拠であります。これなしにはキリストの高潔な人格も、深遠な教訓も天国を語る天国の譬の話も、まして人を救う力はない。「もしキリストの生涯が十字架で終わってしまったら、キリストを伝える意味も力もなくなってしまう。罪の赦しも、天国の希望も、神をまじめに信じて敬うことも、むなしくなってしまう」とパウロは力説しています。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として、死者の中からよみがえられました。(20節)十字架と復活が結びついているからこそ、十字架の苦しみは、すべで輝かしい栄光と、希望に変えられることです。

l  第一に、キリストの亡骸を治められたお墓は、ローマの兵士によって警備された事、そこに至るいきさつの事が書かれています。(マタイの福音書の記録の特徴)番兵たちは御使いを見て、恐ろしさのあまりに震え上がり、死人のようになりました。しかし、その御使いたちは女たちには「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分っています。」とやさしく呼びかけられました。「恐れる」と言う言葉が3回繰り替えされていますので、注目させて頂きたい。主を愛し主に従った人は恐れから解放されて礼拝に導かれるのです。

l  彼女たちは、イエス様の亡骸に香油を塗って最後のお別れをしようと、真実な愛の心が、番兵の警備も乗り越え、地震や天使の威光の光に恐れないで、墓に近づきました。愛とはそのような恐れを越えて、私たちを駆り立てます。更に空の墓を見せた天使は、主のよみがえりのメッセージをこの女性たちに託したのです。12弟子はこの時にはそのような使命は受けることはできませんでしたが、この空の墓に居合わせた女性たちが、この時立ち上がりました。彼女たちは一目散に弟子たちに空の墓の事実を伝えようと行動を起こします。

l  その途上で、今度は主ご自身が、復活の栄光の体を持って、顕現されたと言うのです。「おはよう、喜びがあるように」と言う。この挨拶の声は、生前聞いた事のある声でした。空の墓と復活された主を同時に体験したのです。そして復活の主を誰よりも最初に礼拝したのが、彼女たちでした。また番兵たちが「弟子たちがキリストの亡骸を盗んで隠している」との人間的な画策をも覆し。主は、今度はガリラヤに行かれ、12弟子にはっきりとご顕現なさいました。そして、神の権限を持って全世界に向かって、宣教の大命令をなされています。派遣の命令と、生ける神ご自身が同行される約束をして下さったのです。「ですから、あなた方は行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなた方に命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなた方とともにいます。」(マタイ28:1920

 

4月14日・礼拝メモ

イザヤ書38章9~22節

「贖い主、わたしの保証人」

「ああ、わたしの味わった苦い苦しみは平安のためでした。あなたはわたしのたましいを慕い、滅びの穴から引き離されました。あなたはわたしのすべての罪を、あなたの後ろに投げやられました。」(イザヤ38:17)

<はじめに>今日はパームサンデー、受難週に入ります。イエス様が地上で歩まれた最後の一週間です。イエス様が伝道に打ち込まれた3年半も短い時でしたが、最後の一週間は、特に一番大切な使命に向かって働きを集中された時でもあります。

日曜日:ロバの子に乗ってエルサレムの神殿に入京

  月曜日:宮きよめ、いちじく木ののろい

火曜日:反対者達との論争

水曜日:ベタニヤでの休憩

木曜日:最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、捕縛、裁判

金曜日:裁判、十字架、葬り

土曜日:墓に納められる

l  日曜日:生前、イエス様が語られた預言のお言葉通り、復活される。安息日は本来土曜日でしたが、初代のクリスチャンは主イエス様が復活した日曜日を、安息日として礼拝を献げることになりました。

l  今日は歓迎礼拝ですので少し視点を変えて、誰でもが例外なく直面する課題で、病と死の問題につて、ご一緒に考えて行きいと思います。この世に生まれた以上は例外なく死を迎えます。これは王様であろうと召使いであろうと変わりありません。平等と言えばそれまでですが、人類に与えられた人生コースです。ところが病は一様でない。健康で一生を過ごす人もあれば、生まれた時から障害や病を持って生まれることもあります。途中で大病を患う人、思いがけないけがや病気に遭うことも多々あります。できる限り健やかでいたい。素朴な願いとして、万人に共通しているかもしれません。比較的に故障もなく一生を送れる人も、また病の問屋のような生涯を送る人、当人は受けとって行かなければなりません(例・クリスチャン作家三浦綾子さん)

l  イザヤ書全体は詩文のような形で書かれていますが、36~39章は、歴史的挿入部分です。当時預言者イザヤは、少なくても4人の王様に仕えた。ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ王様。その中でヒゼキヤ王とは、心を一つにして、当時直面していた難しいパレスチナの情勢の中で、国の舵取りをしていました。例えて言いますと「大蛇(アッスリヤ帝国)の前に、野ねずみとカエルがいたとします。大蛇は野ねずみ(北イスラエル王国)を捕囚として飲み込み、今度はカエル(南ユダいく国を)を飲み込もうとしていました。カエル(南ユダ王国)は預言者イザヤとヒゼキヤ王の献げた祈りと信仰によって、神のご干渉による救いの御業を見ました。このことが実際に働かれる神体験と預言者はとらえたことです。

l  国が存亡の危機にさらされただけでなく、ヒゼキヤ王自身が、王様の後取りも無いままで重い病気で死にかけた。その危機の中で王は預言者イザヤの言葉聞きます。「主はこう言われる。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。治らない』とです。そこでヒゼキヤ王は顔を壁に向け、大声で泣き祈った。実際に祈りは答えられて、予想も出来なかった15年の延命を頂くわけです。(初代蔦田師の壮年部修養会も、この様な祈り会であったとか)

l  「自分の人生を中断する」と言う辛い思いは見事に神に訴えられ、また答えらえました。「私は言った、生涯の半ばで私はよみの門に入る。私は残りの年を失ってしまた。・・・牧舎の天幕はかたづけられ、反物を織っていた機織り機から外されて、切り取られる。」神様は切実な願を受け取って下さった。そして「主は私のためにすべてを成し遂げて下さいます。主よ あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手の業をやめないで下さい。」(詩篇138:8)と叫ぶほどです。

l  「生きているときこそ、神を賛美して、主にお伝えさせていただく」よほど練られたことの結果かもしれませんが、「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたの掟を学びました。」(詩篇119:71」と。多くの聖徒は証しています。地上にて賛美と祈りを持って病の試練を乗り越えていきたい。

l  しかし、なによりも心に留めたいお言葉は「私の保証人になって下さい(14節)」です。イエス様は私たちのために罪の償いをしてくださった。ヒゼキヤ王が願っていた救いはこの世の延命でしたが、それだけではなく、聖い御父の審判者に立つとき、私たちの傍らに立って執成して下さる。イエス様が保証人、羊飼い門番であることを思い巡らし、自分にとって天国が確実なものと信じ、この受難週を過ごしましょう。

4月7日・礼拝メモ

マタイの福音書21:23~32節

「主イエスの権威と豊かな例話」

ところで、あなたがたはどう思いますか。ある人に息子が二人いた。その人は兄のところに来て、「子よ、今日、ブドウ園に行って働いてくれ」と言った。兄は「行きたくありません」と答えたが、後になって思い直し、出かけて行った。(マタイ21:28)

<はじめに>4月の最初の聖日となりました。昨日は暖かい日でした。寒い日と急に夏日に近いような日が繰り返しています。体調管理が難しい時かもしれません。でも風邪を引かないで、お腹を壊さないでこの一週間も過ごしたい。来週は受難週に入ります。宮きよめといちじくの木が枯れた出来事は月曜日、今日の記事は火曜日に当たる。主はおそらく朝からエルサレムの神殿に出向いて、当時の宗教学者達と問答をし、大変忙しい一日を過ごされた。夕方には夕日の浴びる神殿を眺めながら、この世の締めくくり、終末に何が起こるかを説教された。

l  主イエス様はエルサレムの神殿で教えられた時に、その権威を尋ねられた。ことごとく敵意を表す彼らに対して、本当に知恵ある答え方をしています。主イエス様は人の心を見抜いて、ご自身の権威を直接証するのではなく、遠まわしに穏やかに、しっかりと答えられました。この世における権威が、もし権力と結びつくと恐ろしいことになります。イエス様は権威を振りかざすような威圧的な行動を避けて、謙遜に柔和に仕えて下さった救い主です。しかしその実質は天地の主、万物の供給者として偉大な権威を秘めておられたのです。聖書の完結文としてヨハネ黙示録がありますが、主イエス様は屠られた子羊として、褒め称えられています。「屠られた子羊は力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です。(黙示5:12)」

l  「私は神の御子である」ですから従えと言うような態度はあえて取りませんでした。「人の子も、仕えられるためにではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。(マルコ10:14)」ですから幼子から、弱さの中で戦っている人や、病と闘っている人のそばに立ち、ともに歩まれたことです。当時の祭司長達は、神殿に仕える奉仕を任されていた。彼らはその権威を、伝統的な祭司制度の中で、受けついでいた。ところが洗礼ヨハネもイエス様もそのような信用証明書を持っていなかった。しかし洗礼ヨハネは、旧約の最後の預言者として、揺るがされない権威を持ってヨルダン川で罪の赦しのバプテスマを授けていました。もしそうであるならヨハネの口から発せられた、メッセージは「悔い改めなさい、天の御国が近づいたから」この人は、預言者イザヤによって「荒野で叫ぶ者の声がする、主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。」と叫ばれた。ラクダの毛皮に身をまとい皮の帯を締め、その食べ物はイナゴと野密であった。エルサレムの神殿に仕えていた祭司であろうと、学者であろうと、近づいてくる人に向かって「まむしの子孫たち、誰が、迫り来る怒りを逃れようにと教えたのか、それなら、悔いあらためにふさわしい実を結びなさい」と、すさましい勢いで人々の迫り、ヨルダン川で洗礼を授けていた。

l  人々は洗礼ヨハネを預言者として信じて受け入れている。それなら彼の言葉を思い出していただきたい「私の後に来られる方は、私よりも力ある方です。私にはその方の履物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火でバプテスマを授けられます。」そしてイエス様は問答を「私もだれの権威によってこれらのことをするのか、あなた方にはいいません。」と、彼らの口を封じてしまったのです。

l  この二人の息子を持つ家庭の姿は、ルカの福音書15章の放蕩息子の記事の要約でるように思っていましたが(この新しい新改訳2017が出る前までは)、愛なる神の御前に取るべき私たちの姿である事を教えられます。「最初は断った、しかし、よく考えて、悔い改めて、帰って来た」兄と弟が入れ替わっていることだって、だれでもが救われるために、取るべきステップは変わりありません。受難週の前に20章でそのブドウ園のたとえが語られています。よくできたたとえの話で「現実にはあり得ないだろうな」と思いますが、天の御父の御思いを示し、福音とは神の備えて下さった方法で、深い感謝を持って受けとるものである。イエス様が人の心理をとらえて、編み出された例話です。

3月31日・礼拝メモ

マタイの福音書21:18~22節

「実をつかなかったいちじくの木」

道端に一本のいちじくの木が見えたので、そこに行って見ると、葉があるだけで、ほかに何もなかった。それでイエスはその木に「今後いつまでも、おまえの実はならないように」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。(マタイ21:19)

<はじめに>桜の花をながめながら、桜の木に向かって、「一回でいいのだ、あとは緑の葉を茂らせ、あの夏の暑さの茂みになってくれれば、もう十分だよ。」そんな語りかけをしたくなる時です。ソメイヨシノの満開の木を眺めていると、何か吸い込まれそうな感じがして、美しさとともに深遠さを感じます。

l  今日お読みしたこの聖書の箇所は、最初に聖書に触れた、その時の感想を思い出していました。イエス様も普通の人ではないか、おなかがすいて、気持ちが落ち着かず、道の傍らから、実を取ろうとして茂みをかき分けてみると、葉は生き生きと茂っていたのですが、実らしき物が見当たらない。そのために感情を出したのだと。

l  野山を駆けまわってアケビを探したことがあります。アケビは葉を茂らせ、生き生きと陣営を構えています。その自然のアケビ棚を見ながら、次は熟れているかどうかを触って見て、もうすこし、これは素晴らしい、熟れている。口を開ける前、鳥がついばむ前の、アケビで柔らかさといい、申し分なしのアケビの実に、「思わず、しめた。見つけた。」そのうれしさ、その感動を今でも再現できます。イエス様もきっとそのような思を持って、いちじくの葉の茂みを覗き込んだことでしょう。いちじく木は、葉がでる前に、花と実が同時について、それから葉が出、葉からの養分を吸って熟して行く、「一年間で10ヶ月実が付けることができる。」と言われています。今ではおいしい果物がたくさんありますが、当時は貧しい者たちの食物、果物として一般的ものであったことでしょう。このいちじくの木を見て、「葉が茂っているのに、実を一つも付けていない、のさばっている、役に立たない、腹いせに呪うのだ」としたらイエス様も普通の人ではないか、そんな印象を第一印象として記憶しています。そして聖書全体の真理の展開に沿って眺めて行きますと、深い思い巡らしと教訓と、信仰的な生き様の教えが満ちあふれてくるはずです。

l  いちじくの木の話をします。ブドウの木も、いちじくの木も、イスラエル民族を象徴しています。詩篇80篇には、「あなたはエジプトからブドウの木を引き抜き、異邦の民を追い出して、それを植えられました。・・・途中から、囲いを取っ払って道行く人に摘み取るままにされた。林の獣たちもこれを食い荒らしています。なぜでしょうか、万軍の主よ、どうか帰ってきて下さい。天から目を注ぎ、ご覧になってください。このブドウの木を顧みて下さい。またイザヤ5章には、当時のぶどう園の姿が描かれています。我が愛する者は、良く肥えた山腹に、ブドウ畑を持っていた、収穫時に備えてあらゆる準備をして、「さあ収穫だ」と言うとき、そのブドウをもぎ取って食べたら、酸いブドウができてしまった。商品としてとても、市場に出せるふくよかな、甘い、熟したものではなく、劣悪な状態でした。その主人が怒りを燃やして「もう勝手にしろというばかりに」すべての囲いを取っ払って旅人、他国の人に食べさせた。そのときの状況を思って、イエス様の心は憤ったのではないでしょうか。

l  ヨハネ15章で語っているお言葉を思い出して頂きたい。「わたしはまことのブドウの木、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ものはすべて、もっと実を結ぶように、刈り込みをなさいます。(ヨハネ15:1)」真のブドウの木、「真」という言葉に3重の赤丸を付けて頂きたい。神の民として選ばれたイスラエル民族は、酸い葡萄となって、神の御口から吐き出されるような歴史に対して、「御子イエス様はご自分の救い主の生涯を証して、なおかつご自分を救い主として信じて受け入れる人々の祝福の基となるために希望の印として、私たちに正真証明の実を豊かに結ばせて下さる。」と言のです。御霊の実は愛喜び平安、寛容親切善意 誠実柔和自制です。このようなものに反対する律法は在りません、全く拘束される根拠はありません。そして勇気を持って、伝道の実を結ぶために知恵と努力を傾けましょう。

l  信仰とは御父が、出し惜しみせず、与え切って渡された御子を、心の真ん中に据えることです。また、全能の神を愛して、高く目を上げることです。この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』、富士山を湘南の海に移すこともできる神を信じましょう。

 

3月24日・礼拝メモ

マタイの福音書21:12~17節

「わたしの祈りの家」

そして彼らに言われた。「わたしの家は祈りの家と呼ばれる」と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを「強盗の巣」にしている。(マタイ21:13)

<はじめに>いのちが芽生える春の季節、精神が病んでいる人には、大変な季節であるように聞いています。なぜだろうか、大きな期待とその反動のような不安の重圧を感じて、押しつぶされてしまうようだ。球根を植えてチューリップが芽を出すのは自然の期待ですが、スミレの花は、よくもまあ、こんなところでけなげに花を咲かせているものだと驚かされます。大きな牛や馬も出産し、かわいい雀も雛を抱え込む、嫌われものカラスの鳴き声も、一段と大きく響き渡る。

l  自然界が一斉に生命にみなぎる時、それに比べて自分は、秋の枯れ草のように、どうしても内側から生かされるような力がわいてこない、自分が取り残されているような錯覚がますます広がって行くことがあるでしょう。信仰的また霊的なサポートが必要です。例話「ブラザーローレンス、敬虔の生涯」

l  「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶことを喜び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、わたしの家、わたしの城壁の内で、息子、娘に勝る記念の名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。・・・安息日を守ってこれを汚さず・・・わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のささげ物やいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。(イザヤ56:4~7)」

l  イエス様が伝道に打ち込まれた3年半の生涯の中で、エルサレムの神殿を浄めたのは2回、福音書に記されています。

1回目はヨハネの福音書2章です。神殿の中で、牛や羊や鳩を売っている者たち、座って両替をしている者たちを見て、牛も羊もみな神殿から追い出し「それをここからもって行け、わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」と言われた。普段は柔和で優しい主イエス様が急変して荒々しき態度を取られたので、弟子たちは「あなたの家を思う熱心が私を食い滅ぼす(詩篇69:9)」のみ言葉を思い出しました。これは神の御前に断食して身を清めている人を揶揄した言葉です。一方、傍で聞いていた宗教学者・指導者達は「こんなことをするからには、どのようなしるしを見せてくれるのか。」と見ていました。主イエス様は彼らに「この神殿を壊してみなさい、わたしは3日でそれをよみがえらせます。」と言われました。それを聞いて宗教学者・指導者達は、ヘロデ王が46 年をかけても、まだ完成に至らない神殿を3日でよみがえらせるのかと言ったのです。けれども弟子たちは、主イエス様の仰せられた言葉から、神殿はご自分の体のこととわかったのです。

l  それから3年が経っても、また同じようなことが相変らずなされていた。それを正す主イェス様の宮浄めの記事を共観福音書は記しています。今度は、相手の指導者達にしてみればひどいと思われる言葉が語られています。「強盗の巣(エレミヤ7:11)」と。主イエス様のしたことは祭司長、律法学者、民のおもだった者たちにとって、許しがたいことでした。

l  説教の題について「わたしの家は祈りの家」ではないのか「わたしの祈りの家」でないのか、夜中に起きて考え直した。「教会は祈りの家」これは昔も今も変わらない大原則です、また教会の大切な使命です。祈祷会の盛んな教会は、幼子が成長するように、どんどん教会を成長させてくださるでしょう。

l  前から指定するか、後ろから説明するかの違いであることが分かった。前から指定すると「私の祈りの家」、後ろから説明をくわえると「わたしの家は祈りの家」となるのです。イエス様ご自分の御名を持って指定したわたしの祈りの家であるからこそ、あえて身の危険をさらけだし「わたしの祈りの家」と考えておられたのではないでしょうか。へブル書のお言葉に目を止めてみましょう(へブル10:11~23)。そして実際にイエス様の祈りの模範とユーモラスな勧めのことばに目を留めてみましょう(ルカの福音書11:1~8)。

 

3月17日・礼拝メモ

マタイの福音書21:1~11節

「ナザレから出た予言者イエス」

「こうしてしてイエスがエルサレムに入られると、都中が大騒ぎになり、「この人は誰なのか」と言った。群衆は「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言っていた。(マタイ21:10~11)

<はじめに>梅ヶ丘の梅は散り、神学院の桃の花が満開になりました。春たけなわというところでしょうか。寒さの季節から春霞がかかり、「杉林の中で暮らしても花粉症には何の心配も無い」と。高をくくっていたところ、そうではないのだと語ってくださっているようです。とうとう花粉症のような症状が出てきましたので、少しは花粉症で苦しんでいる方の気持ちも同情できるようになりました。今は教会の暦ではレントです。クリスマスを迎えるアドベントが一ヶ月間ありますが、レントは受難週・イースターを迎えるための40日間です。

l  今年の受難週は414日(聖日)から始まって、20日(聖日)復活祭イースターとなります。今日の聖書の記事はパームサンディーと呼ばれる棕櫚の聖日の出来事です。イエス様がロバの子に乗ってエルサレムの都に迎えられたことです。教会こども賛美歌に「私たちはロバの子です・・・」があります。主がお入り用なのです。柔和のロバの子です。ソロモン王の時代以降、乗り物は馬が主役で、ロバは夫人や子供達の乗り物でした。また荷物の運搬用に使われたのです。

l  柔和さというものは、とても優れた宝物です。イエス様は山上に説教の中でおっしゃいました。「柔和な者は幸いです。その人は地を受け継ぐからです。(マタイ5:5)」荒々しいご主人を相手に、柔和な優しい奥さんがいたとします。短時間だと主人負かされてしまいますが、長い時間をかけて戦うと、柔和な奥さんが勝つのです。最後には、家庭を治め、御主人悪戦苦闘で蓄えた富を譲り受け、天の御国の切符も手に入れ、神の家を継ぐのです。強い相手に対して、何も太刀打ちできないような弱さを嘆かないで主を見上げましょう。かえって豊かな富を手にするのです。まさにイエス様はロバの子に乗って、「この小ロバ私が乗って大丈夫かしら」とイエス様は優しい心遣いをしながら「主がお入り用なのです」とおっしゃるのです。天の御国では弱さ柔和さは、純金のような輝きを放つに違いない。ゼカリヤ書9:9~10節「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなた方の王があなた方のところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ロバに乗って。雌ロバの子である、ロバに乗って。わたしは戦車をエフラエムから、軍馬をエルサレムから絶えさせる。戦いの弓も絶たれる。」パームサンディーは真の意味での凱旋的入城でした。

l  エルサレムの都の人々はどのようにイエス様を迎えたのでしょうか。彼の弟子たちは自分の上着をロバの上に掛けました。そしてその上にイエス様が乗ったのです。

旅先の巡礼者達は自分達の上着を、木の枝を道に敷きました。マタイの福音書では「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。(マタイ21:9)」マタイの福音書イエス様が王であることを強調しています。そして群衆は「この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ」と言った。

l  「ガリラヤのナザレ出身の預言者」との言葉は、イエスを現した言葉の一部分的に過ぎない事です。キリストの弟子であったナタナエルは「ナザレからなんの良い者がでるだろうか」と見下した意味も含めて言いました。またペテロは「あなたは生ける神の子キリストです。」と模範解答をしましたけれども、それらはイエス様の全体像の一部分にしかすぎません。私たちが天の御国に行き着いたら、驚くような麗しいお人柄に驚かされることでしょう。

l  「私たちが知るのは一部分です、預言するのも一部分であり、完全なものが現れたら、部分的なものは廃れるのです。私は、幼子であった時には、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことをやめました。今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔をあわせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知るようになるのです。こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。これら3つです。その中で一番優れているものは愛です。」(Ⅰコリント13:9~13)私たちが天の御国でイエス様とお会いしたら、」私たちがこの世で、悲しんだり、嘆いたり、悔んだり、苦しんだ罪と戦いで悪戦苦闘した出来事が、感激と感謝と光栄に変わるのです。主におすがりしたことの素晴らしさ、罪の生涯に歯止めをかけて頂いた十字架を深く思うことで、胸が張り裂けそうな思いになるかもしれません。

3月10日・礼拝メモ

マタイの福音書14:22~33節

主よ。助けて下さい

イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたのです叫び出し、「主よ。助けて下さい」と言った。(マタイ15:29~30)

<はじめに>今日は歓迎礼拝です。牧師も歓迎されて、講壇に迎えられまして感謝です。本当に寸足らずのものですが今年もよろしくお願いいたします。教会には救いという宝物があります。宝の価値を知らない方もいるかもしれません。人は素晴らしい宝石以上の宝物があるとしたら、穏やかではありません。我先に奪い取るようなことが起こるかもしれません。今日はその宝物を皆様に見て頂く幸いな歓迎礼拝です。

l  私たちの人生は、不安や恐れや心配に囲まれています。さみしさや、悲しみや、憂いに囲まれているかもしれません。どうしましょう。どうしましょうといったってどうすることもできない。もう人助けはごめんだ、いちいちかまっていたら、日が暮れてしまう。早く目的地につきたい。目的地はどこですか。天の御国です。お酒よりもっとうまいものがある。そう言って話してくれた教会の渡辺倉蔵さんがいました。無害でこころを満たしてくれる食べ物、飲み物を出すような教会であり続けたい。

l  今日お読み頂きました聖書の中に、そのようなヒントが隠されています。探って参りましょう。湘南の海は穏やかで美しい、冬でもサーフィンを楽しんでいる人がいます。その海ですが、地震がやってきて津波が押し寄せたら、恐怖の海に変わる。東日本大震災から8年経っていますが、未だに家族が見つからない人、復興がはかどらす、荒れ果てたふるさとをどうすることもできない人たちも沢山います。聖書の最後の書ヨハネ黙示録には、海は恐ろしい不気味なものとして、描かれています。「また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地はすぎさり、もはや海もない。」さらにお言葉は・・・「神は彼らの目から、涙をことごとくぬぐい取って下さる。もはや死もなく、悲しみもなく、叫び声も、苦しみもない。以前のものは過ぎ去ったからである。」昔の人は海は魔物だと思っていたらしい。

l  <波の上を歩く奇跡>

ある人は考えました。どうしたら、波の上を歩けるか。片方の足が沈まないうちに、もう片方の足を出して、体重をかける。その素早い動作ができれば沈まないで歩けるはずだ。理屈を言えばそうかもしれない。でも足を出す前に沈み始める。重力が働いているからです。人工衛星の船内では、波の上を悠々と歩ける。イエス様もペテロもそのときは重力がOffに切り替わって、重力が働かないでいたかもしれません。確かにイエス様は人にできないことを奇跡としてたくさん聖書の中で見せてくださいました。イエス様は私の心のざわめき、不安恐れを沈めくださいます。たとえおぼれかかっていたとしても、イエス様はペテロに手をさしのべて下さったように、あなたの手を握って、不安や恐れや悲しみや苦しみの中から救ってくださる救い主です。イエス様はこの前後にお祈りをなさいました。この世に使わしてくださった御父と会話をするためにです。私達もお祈りします。目には見えませんがこころの叫びや願い事を聞き届けてくださるお方に、お祈りし、またお話し、会話を楽しみます。イエス様は神様であられるのでお祈りは必要ないお方ではありますが、あえて人の子として祈られた。

l  <イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで下さった>

ペテロは勇気を出して舟から一歩踏み出し、水の上を歩き出しました。しかしイエス様から目を離して、風と波を見たのは間違いでした。怖くなって、沈みかけたのです。ペテロが叫んだのはそのときでした。「主よ。助けてください」まさにその瞬間でした。主は強い御手をさしのばし、ぎりぎりでおぼれるところから救い出されました。何世紀にもわたり、意気消沈の海に沈みそうになっている数多くの人たちは、主に叫び声を上げました。「主よ。助けて下さい」主はそのような人たちを苦しみから救い出された。キリストはあわれみを持って強い御手を差しのばし、そのような人たちを救い出されたのです。

3月3日・礼拝メモ

使徒の働き20:17~38

「神とその恵みのみことばに委ねて」

「今私は、あなた方を神とその恵みのみことばに委ねます。み言葉はあなたがたを成長させ、聖なる者とされたすべての人と共に、あなた方に御国を受け継がせることができるのです。」(使徒20:32)

<はじめに>一年間は早いものです。今年も年会を迎えました。年会から年会までと言うのが私たちの教団の姿勢です。神様からの任命は基本的には一年間です。一昨日は神学院の卒業式で2名の方を伝道者として送りだすことが出来ました。本当に焼け石に水のような、とても働き人の少ない時代で、大変な中にありますが、それでも主は憐れんでくださって、神学院の使命が果たされることは憐みです。

l  君主欄の花が二輪だけ咲きました。当初の計画では卒業式に間に合うように、営繕の部屋で暖かくして少しでも早く咲かせようと取り組んだのですが、間に合いませんでした。でも二名の卒業生に対して、3月1日には二輪だけ咲いたのです。

l  ところで、今日お読みした場所は、パウロの第3回伝道旅行の復路であります。小アジアのエペソの教会に立ち寄りたかったのですが、時を急いでいたので、船が立ち寄ったミレトスに、エペソから教会のリーダーたちを呼び集めて、メッセージを送ったのです。アンテオキヤから出発した彼らは異邦人教会からの豊かな伝道資金を集め、迫害によって散らされたエルサレムの教会に届けると言う使命もありました。そして、ミレトスに集まった長老(教会の指導者)にメッセージを語り伝えたのです。今日はこの箇所から、3つの事についてお話しをします。

l  第一に牧者の模範としてのパウロ

エペソに足を止めた3年間はパウロにとって異例であった。エペソには人間が作った大きな偶像アルテミスの神殿が据えられた場所です。私の故郷長野は、善光寺があります。長野駅から本堂まで参道が続きます。その参道にはたくさんのお店が並び、「善光寺なしにはやっていけない」と商売の同業者はみな口をそろえて、商売繁盛のために善光寺に寄付して、長野の商店は営まれています。そのような参道の脇に、なんと「復活の長野キリスト教会」と言う看板を掲げた小さな教会があった。雪深い飯山市から、電車で長野駅に出て、確か自分の担任の先生が出入りしている教会かもしれない。そのような思いで立ち寄った事がありました。それは私にとって初めて教会に踏み入った時です。その教会でお昼を御馳走して歓迎して下さった事がとても感動的でした。そして今こうして救われて牧師をしているのですから感謝です。伝道者パウロも、数々の試練の中で、謙遜の限りを尽くして、涙とともに主に仕えてきました。人に仕えるのでしたら、気が向かなくなったら投げ出しても構わないかもしれませんが、主に仕えるのですから忍耐強く使命を果たさせて頂くのです。「神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰」を力強く勧めて、教会の礎を築いて行ったことでしょう。誰かが注ぎだされなければ伝わらないキリストの愛があるのです。

l  第二には長老たちへの勧告です。

「あなた方は自分自身と群れの全体に気を配りなさい。神がご自分の血を持って買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなた方を群れの監督にお立てになったのです。」牧師はもちろんの事、教会に仕えてきた方々も、このような責任を委ねられています。自分の身の程を知って、正しく自分を見る目がないことがあります。何者かの如く思い上がったりしないことが大切です。また、自分の事だけではなく、群れ全体に気を配る事が出来る心の広い器が必要です。教会はキリストを信じて、心に救いの喜びを持って集まる人たちの所です。そうでなければ今日集えた人でも、サタンの攻撃や、世の誘惑によって、次の集会には誰も来られなくなるようなことだってありうるのです。サタンは絶えず熱心なクリスチャンを狙ってきます。荒々しい狼が入ってきたら警戒しますが、サタンは小羊のような、優しい誘いのことばで、キリストの教会を活動を無にしてしますのですから気を付けなくてはいけません。

l  第3にパウロの召命への応答です

パウロは自分に与えられた使命を「天からの啓示」としてを受けとりました。そしてその厳かな召命に答えて一生を献げました。彼とていつまでも生きて伝道できたわけでもありませんで、もう教会を神の御手に委ねて、区切りを付けなければなりませんでした。「今私は、あなた方を神とその恵みのみことばに委ねます。み言葉はあなたがたを成長させ、聖なる者とされたすべての人と共に、あなた方に御国を受け継がせることができるのです。」最終的には神のみ言葉に委ねるわけですが、本当にお言葉に生き続けたら聖句は力を発揮します。そのようにお言葉を握って、立ち上がりましょう。

 

2月24日・礼拝メモ

エペソ人への手紙5:1~20節

「御霊に満たされなさい」

「機会を十分に生かしなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころが何であるかをさとりなさい。…ぶどう酒によってはいけません。…むしろ、御霊に満たされなさい。」(エペソ5:16、17)

<はじめに>

「神に愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい」子どもは父親に似ると言われます。良きにつけ、悪しきにつけそうでありますが、良い所を似てくれれば申し分ありませんが、悪い所を似るのですから困ったことです。

l  神の子である私たちは御父なる神に倣うと言う途方もない高い標準を掲げます。いかがでしょうか。そのためにはまず、古い習慣を脱ぎ捨てましょう。古い人とはイエス様に出会う前、新生以前の考え方や生き様です。世の人は言います「少しずつ改装して行けばそれだけでも満足すべき成長だと。」しかし、人の心を知り尽くした。使徒パウロは命じます。「思い切って捨て去れ」それは心の霊によって新しくされることです。「この世と調子を合わせてはいけません。いやむしろ、神の御心が何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ12:2)」そして新しい人を着るのです。

l  御父に倣うことは御子イエス様に倣う事でもあります「あなたの愛は、ぶどう酒に勝って麗しく、あなたの香油は香り芳しく、あなたの名は、注がれた香油のよう。そのために、乙女たちはあなたを愛しています。」と雅歌書には記されています。

l  イエス様が十字架に付けられる前、ベタニヤホームで心身をくつろわせ、厳しい十字架に向かわれました。その時マリヤは非常に高価なナルドの香油の壺を割って、イエス様の葬りのために備えました。イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。キリストの品徳・品性・言葉ほど、人類が体験できるかぐわしい香りはありません。このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。(コロサイ2・3)。このキリストのうちにこそ、神の満ち満ちた御性質が形をとって宿っています。(コロサイ2・9)

l  先週は「聖霊を悲しませてはいけません。」と語らせて頂きました。聖霊は優しい控えめなお方で、御父のように強く命令をもって諭すことより、涙を浮かべ、悲しみの傷みと苦しみの中で私たちを矯正されます。御霊が悲しませていると感じたその時、心の転換をしましょう。

l  今日は聖霊に満たされる事を思い巡らします。聖霊に満たされると言うことは、聖霊のバプテスマを受けることです。この地上から、復活し、超スーパー的な復活体を持って40日間、弟子たちに現われて下さいましたが、とうとう天の御父の元に帰る時が来ました。イエス様は御言葉を弟子たちに残されました。「命じられた」権威と力を込めた命令です。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなた方は間もなく聖霊のバプテスマを授けられるからです。使徒1:4~5」それから祈り続けて、10日目、イエス様が復活して50日目に、ペンテコステの聖霊のバプテスマが起こりました。その時のことは聖書の記す通りです。「五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。すると天から突然、激しい風が吹いてきたような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響きわたった。また炎のような舌が分れて現われ、一人一人の上に留まった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろな言葉で話し始めた。」その後もしばしば弟子たちは、この時に体験した喜びの油を注いで頂き、イエス様の福音を伝える弟子に変わって行きました。

l  「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って揶揄されていますが、お酒ではありません、聖霊のバプテスマを受けて、圧当的な罪の赦し、神の愛を無限に注いで頂き、心の解放による自由なたましいに生まれ変わりました。聖霊のバプテスマは無名な弟子たち、僕やはしためにも注がれたことを覚えましょう。貴方にも私にも注がれるはずです。聖霊に満たされた恩師<蔦田真実牧師>の思い出があります。聖霊様が御父の手から、御子の手に渡され、ついに私たち一人一人の心に賜物として届けたれたことを実にわかりやすく解き明かされた。聖霊はプレゼントのように手渡されることを考えて、まるで人格である聖霊様の心を無視して、いとも簡単に手渡されるその姿の中にこそ、御霊の謙遜を感じませんか。それはまた、明確な徴として、私たちの心に届けられたことです。

2月10日・礼拝メモ

ルカの福音書8:40~42、49~56節

「死んだ娘をよみがえらせる」

人々はみな、少女のために泣き悲しんでいた。しかし、イエスは言われた。「泣かなくてもよい。死んだのではなく、眠っているのです。」(ルカ8:52)

<はじめに>

l  青森教会の開拓のころ、家内を含めて56人の方が礼拝に集まっていました。ある日突然、韓国から日本に住む同国人にハングルを教えるために遣わされた方が教会に来ました。礼拝を終えてから教会に来られたいきさつを話された。小学4年の娘がいます。書道で賞をとるほどの腕前で、ご両親の期待をはるかに超えた、優秀な成績で日本の学校に通っていた。その娘が、突然白血病となり、弘前の大学病院に入院しているので祈ってほしいと言う事でした。

l  それからしばらく私たちもその娘さんを見舞いました。家内が紙芝居を通してお話をしましたら、素直にイエス様を信じて救われました。開拓伝道の中で、魂が救われる事はこの上もない喜びでした。しかし、その年の秋に、娘さんは天に召されて行ったのです。会堂も無い借家教会でしたが、仙台あたりから韓国人の方が沢山、葬儀に来ると言うので、近くの教会の会堂を借りて葬儀を行いました。十和田教会の先生が、前夜式で語られた御言葉が、このヤイロ娘の記事でした。

l  ヤイロは、重い病気にある12歳の一人娘を何とか助けてほしいとしきりに願った。

病気が重い中で、一刻も早く家に来てほしい。しかし途中で12年間、病に苦しむ血漏の女の人がイエスの衣にさわって癒された。思わぬ道草を食ってしまった。ヤイロに伝言が届き、娘が死んだと言う通知でした。ヤイロはもはやイエスを煩わせることもないと思ったかもしれない。しかしイエスは「ただ信じなさい。むすめは救われます。」と言いヤイロの家に向かった。人々はもう手遅れと思っていたが、イエスは家の中に入って行ったが、そこで泣き悲しみながら葬式の準備に取りかかっている人たちに、家から出るように命じられた。特定の人たちだけ家に入ることを許した。イエスは、娘のそばに近づき、「子どもよ。起きなさい」と言われた。すると、娘は直ぐに立ち上がった。両親も、イエスを嘲笑っていた人たちも、ただ驚くばかりであった。

l  第一に「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます。」

この父親ヤイロが伝言を受けた時の心境を想像してみましょう。やっぱり間合わなかったか、残念だが仕方ない。もうこれ以上は頼み込んでも娘は戻ってこない。先生をこれ以上家に招いて煩わせることもないだろう。そんな重圧がかかった中で、心が動揺しかけた時でした。イエス様の方から、不思議な力強い言葉を頂きました。彼はイエス様のことばを信じたのです。ですからヤイロにとっても大切な語りかけであったに違いない。これは今の時代の私たちにも通じる信仰の世界のルールです。疑わないでイエス様のことばを信じて、前に進むときに、主の憐みの奇跡がなされる。私たちは神を離れて魂が死しんでいる状態である事を聖書は語っています。イエス様は息を吹きこんで永遠のいのちに生かしてくださる心の救いに通じる例証でもある。ところであなたの魂は生きていますか。

l  第二に「泣かなくてもよい。死んだのではなく、眠っているのです。」

イエス様は魂を呼びさまされた。この時は蘇生と言う奇跡を持って臨まれた。同じような奇跡の出来事がヨハネの福音書にも書かれています。死後四日過ぎて、墓に葬られたラザロを、墓の中から呼び戻された奇跡が書かれています。これらの奇跡は、最後の奇跡中の奇跡、イエスご自身が罪の身代わりとして、十字架で死に葬られて墓に収められ、完全に死なれた者となりましたが、その死の墓を空にして、復活の栄光の体によみがえられた出来事に繋がっているのです。眠っているのですから、目を覚ます時が来るのです。人類を死の苦しみと嘆きから解放し、神と共に永遠を生きる希望が与えられる。これこそ私たちにとって、本当の救い、魂の救いです。主イエス信じて受け入れる人には約束されているのです。

l  第三に「その子に食べ物を与えるように命じなさい。」

イエスはよみがえった娘に食物を与えるよう指示したことです。イエスの奇跡は癒された者が、更に健康で過ごす事が出来るようにしてくださいます。罪深い私たちが、罪赦されて生きている。それ自体、奇跡としか言いようがない。そして私たちが、更に健康な生活ができるように、イエスが身体的必要も満たして下さっているのです。少女がよみがえったことで、人々が有頂天になっているとき、イエス様はこの少女の回復の人生を支援するため、食べ物を与えて元気つけた。先の先まで心を遣うイエス様の導きは今も変わっていません。

2月3日・礼拝メモ

エペソ人への手紙4:1~16節

「御霊の一致を熱心に保つ」

謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛を持って互いに忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。(エペソ4:2~3)

<はじめに>

l  先週は教会総会が開かれ、今年度の計画が立てられました。ご協力に感謝致します。今週から新しい歩みの中に導かれたいと思います。インフルエンザが猛威を振るっていますので気を付けてください。年頭より獄中書簡のエペソ書を開いています。私達の教団創設者の蔦田二雄師も太平洋戦争の終結まで丁度2年間、獄中で過ごされました。インマヌエル神ともにいます。その信仰の原点は獄中を通して神様が語って下さったビジョンによるものです。昭和17626日、ホーリネス系の伝道者が検挙された日でもあります。

l  先週は人知をはるかに超えたキリストの愛が、人類に注がれていることを語らせて頂きました。その永遠の愛は広さも、深さも、高さも、長さもあると伝道者パウロは祈りの中に表現しています。

l  広さ…全人類を包むこと。すべての世代の人類に及ぶ広さです。人類全体を抱擁する愛です。東京オリンピックパラリンピックまで一年、世界中の人が集まるのですから、どのような国の人々をも包み込むほどのキリストの愛を先ず、自分自身が体験して行きたい。自分の殻を破れないもどかしさがありますが、いままで大の苦手であった人付き合いも、勇気を出して、勇気を持って挑戦できるようになりたい。

l  長さ…永遠から永遠へ、人の誕生から死に至るまで変わらない愛。1章では「神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。」とあります。私たちの心には、永遠を思う思いを与えられたと聖書は書かれています。それは事実です。生まれる前から覚えられていたことは救われた後にわかったことです。キリストに出会うとその以前も、以後も生かされてくるのです。主は遠くから私に現われた。「永遠の愛を持って、私はあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。(エレミヤ31:3~4)

l  高さ…いかなる敵も届きえない、奪い取ろうとしても奪い取ることは出来ない愛です。その悪のゆえに、天使の長であったサタンでも突き落とされてしまった。そこから発する権威ある高き愛です。天よりも高く登られたかたはイエス様です。それは低い地上にも来られて足をおろされた方でもあります。

l  深さ…いかなる被造物によっても測りえない愛。大自然は第二の聖書と言われ、どんな被造物も証しえない神秘極まりない秘め事を含んだご愛です。それはまた人々のうちで最も卑しい、あるいは道徳的堕落した人々にさえ届く愛です。実際的見地からすると、あらゆる時代、あらゆる状態、あらゆる人類を抱擁する神の愛をまとめて、あらゆる人に教会が伝道する基礎を提供している。この愛をまとめた言葉が「ヨハネの福音書3:16」です。

l  わたしたちは神の招きを受け、喜んで応答したのです。単なるお客さんではありません、雇われ人でもありません。子としての身分を授けられ神の子としての立場へと招かれたのです。「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子とされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)

l  クリスチャンの基本的共通点、7つの一つがあげられています。体は一つ、御霊は一つ、一つの望、主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、神は唯一それが神に召された者の特質なのです。パウロはそれほどまで強烈に私たちが一つである事をここで強調します。これら根本的な7つのことについては一つであり、それらは、私たちすべてにとって共通の宝物なのです。パウロは神につて注意深く語っています。神の御霊は一つ、主キリストは一人、父なる神は唯一と述べています、御霊、御子、御父の三位一体の神について語っています。三位一体の麗しい一致にすでに、私たちのモデルがあるのです。私たちの一致の土台があることで多様性が生かされるとしたら、教会は本当のキリストの体であることでしょう。