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インマヌエル湘南中央キリスト教会は、神奈川県は茅ヶ崎市、ライフタウンの中にある教会です。

TEL.0467-54-7740

〒253-0006 神奈川県茅ヶ崎市堤89-5

メッセージを読んで頂きありがとうございます。



5月12日・礼拝メモ

ヨハネの福音書14:15~24節

「助け主、真理の御霊」

「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与え下さり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにして下さいます。この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなた方はこの方を知っています。この方はあなた方とともにおられ、また、あなた方の内におられるようになるのです。」(ヨハネ14:16~17)

<はじめに>

l  今日は母の日、子供を慈しむ母がどの家庭にいることは何と幸せなことでしょうか。母が自分の産んだ子供に対して注ぐ愛は、自分のいのちを注ぎ出し、惜しみなく与える愛です。それは惜しみなく注いで下さった神の愛とよく似ています。キリスト様が私たちに注いで下さった愛はそういう種類の愛です。私たちが主キリストを信じて救われますと、イエス様はご自分の子と認知して下さいます。そして、その生んだ我が子のために、母親の愛のように、更に量的には比べ物にならないほど、世界中の信仰者に対して、普遍的な犠牲的な愛を示されるのです。勿論信じない時も注がれてきたのですが、実は気が付かなかっただけです。神(御父)と御子の交わりの中に、加わらせた頂いた事、御父と親子の関係を結ばせて頂くのが信仰者の救いの体験であるからです。

l  「神は愛です。ですから私たちは互いに愛し合いましょう。」とは主イエス様が私たちに語って下さった事です。この愛は誰にも必要不可ないのちです。この世に生まれた幼子は勿論、成長盛りの中高生や青年達も、働き盛りの子育て真っ最中のお父さんお母さんにも、年老いて寂しくなって行く高齢者にも、この愛は必要不可欠ないのちです。キリストは神の独特無比の独子です。御子であるキリストが信頼と愛を込めて「わが父よ、アバ父よ」、と祈りの中でお呼びしている方は、唯一の神です。全世界のすべての造られたものを相手にして、目にみえるもの、目に見えないも、すべてを造られた天地創造、万物の総支配者、維持者であられる神を、御子キリストは、天の父とお呼びしています。更に、いのち溢れた戒めを語っています。「わたしはあなた方に新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたもわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(13:34~35)」

l  今日の聖書の箇所はイエス様が数時間後に、十字架に架らけれる直前の晩餐会です。もう一人の助け主<パラクレートス>「助言者、とりなす者、弁護者、激励者、援助者」を約束して下さいました。子供が成長して成人に至るまで、母親は生きている事でしょう。普通はそのように愛なる神は配慮してくださいます。でも時としてそのように行かないハプニングがおこります。事故や病気でやむなく幼子を残してこの世を去らなければならないこともあります。でもそのような時に、母親に変わてくれる方が顕れたら、本当に助かります。イエス様がご自身に代わる、ご自身とは別の助け主をここで紹介しているのです。十字架に向かわれるイエス様は、子供(信仰者)を置き去りにして世を去ることはできません、自分と同質の自分に代わる助け主を、紹介してくださっているのがこの場所です。

l  その御方は真理の御霊です。キリストの御霊です。救い主イエス・キリストのうちに住んでくださっていた御霊です。イエス様の誕生の時も、処女マリヤに通して、この世に誕生させて下さったのは御霊です。ヨルダン川で洗礼を受けた時も、聖霊は鳩の形をとって現われて下さいました。十字架で私たちの罪の身代わりの死を成し遂げ、死にて葬られ、死人の中から復活されたのも。よみがえらせてくださったのも御霊です。終始イエス様と共に働き続けた聖霊が、今度は、残される私たちの心に住んでくださり、真理を解き明かし、イエス様が救い主である事実を、証出来るように、ペンテコステの恵みを下さったのも聖霊です。弟子たちはこの聖霊なる御方を心中に頂き、聖霊に満たされて、無学の凡人が、イエス様の十字架とよみがえりの証人として変えられたのです。イエス様は、世が与える平安ではなく、イエ弟子たちの心中に、イエス様の臨在を、形見として残されたのです。

 

5月5日・礼拝メモ

ヨハネの福音書14:1~14節

「わたしのいるところにあなたも」

「わたしが行って、あなたがたのために場所を用意したら、また来て、あなた方をわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなた方もいるようにするためです。

(ヨハネ14:3)

<はじめに>

l  今日は子供の日です。連休もあとわずかとなりました。十分な休息もとれたでしょうか。今日は一番たいせつな聖書の箇所からメッセージと言うことで、悩みのゆえようやくまとめてみました。聖書の箇所は受難週、最後の晩餐のテーブルスピーチです。このヨハネの福音書は共観福音書のマタイ・マルコ・ルカの福音書ができてから後、補足的に書かれたものですが、弟子達と最後に過ごした晩餐ほど、大切な聖書の箇所はありません。

l  「神を信じる」ことは当時の人々には問題になることはありませんでした。しかしそれに続く、「わたしを信じなさい」と言う言葉には。ユダヤ人指導者達は、煮えくりかえるような憎しみをぶつけていたのです。しかし主イエス様は淡々として、そこを逃げも隠れもしないで進み行かれたのです。主は十字架のために受ける自分の苦痛もわすれて、口を開かれたのです。当惑している弟子達を慰め、励まし、また彼らの目を天に向けさせて望みをお与えになったのです。困難と試練があっても、信仰と希望のあるところには勝利が来る。この天上のご奉仕が完成したら、私たちを天に携え上るために、再びこの世に迎えに来られる。これは主イエス様の世の締めくくりの再臨の時を示しています。主は、私たちを天の御父のところに運んで下さる唯一の道です。

l  天国について

イエス様は天国のことをわたしの父の家と言っています。イエス様にとって故郷の御国です。御父の臨在と支配の権威に満ち、御父と愛を満喫される所です。そこに私たち信仰者を招いて、共に交わってくださる、くつろぎのスペースです。小さなスペースではなく、信仰者にとっては途方もない、大邸宅を備えて招いて下さると言うのです。だれも天国を見た者はいません。天国に行って帰って来た者もいません。けれどもイエス様は何の躊躇もなく、私たちが住むべき住まいを用意して下さると言うのです。「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。あなた方のために場所をそなえに行くのです。」更に、あなた方のために場所を備えたら、また来て、あなた方をわたしのもとに迎えます。これはイエス様が再びお出で下さる再臨のことを言っています。イエス様が来られたら困るような生活でしたら、大変ですが、信じて主を受け入れた心は、この再臨のことがあるから、人生に希望と大きな期待を持ち、進むことができるのです。

l  道・真理・いのち

イエス様は「わたしは道を示します」、「わたしは真理を教えます」「わたしはいのちをあたえます」と行ったのではなく、イエス様ご自身が、ご自分の生き様を通して、御父に至る道、御父を知る真理、御父の持っていられる永遠のいのちなのです。

主イエス・キリストを知ることは神を知ることであり、地上で彼を信じることは、天国の御住まいを備えられた者です。おそらく、この御言葉を通して、信仰に導かれた方が多いと思います。20世紀に活躍した伝道者ビリーグラハム博士は、青年の頃、信仰に導かれながら、このお言葉の前に座って、この言葉を語る人は「真実な方か、大嘘つきか、どちらか違いない」それを突き止めるために聖書を読み出し、ついに彼こそ真実な神が遣わして下さった御子であること信じ受け取り、伝道に立ち上がって、世界中の人々を相手にメッセージを語る器になりました。

l  5月2日はわたしの入信記念日でした。灰色の都会の空と、むなしい心を持って、有楽町で下車した私でした。誰かと待ち合わせたのではなかったのですが、でもその日、最高の愛の化身、わたしは道であり真理でありいのちである方とお会いできた記念日となりました。あの時から今日まで47年間、大牧者に導かれて来ました。本当に感謝です。

4月28日・礼拝メモ

ヨハネの福音書13:1~11節

「主は弟子の足を洗われた」

「イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れて、弟子達の足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。」(ヨハネ11:4~5)

<はじめに>ゴールデンウィーク、長い休みが続きます。この休みに出入りが守られますように、また聖日礼拝が豊かな恵みの時となりますように。

l  ルカの福音書では、復活の主が旅人の姿で、エルサレムの都からエマオの村にへ向かっている弟子達に近づき、エルサレムの都で起こった出来事について、「キリストは必ずそのような苦しみを受け、栄光に入るはずだったのではありませんか」と、ご自分について聖書全体に書いてある箇所を解説してくださった。その時、彼らの心は内に燃えていたとあります。日が傾いたので、その旅人を引き留めて夕食に招いたことです。その時、感謝の祈りとパンを裂くその御姿から、生前のイエス様が、生きて目の前にいることがわかった。信じることができた。そこで旅人の姿で現われた主は消えてしまいすが、信仰によって復活の主イエス・キリストを信じることができたのです。エルサレムの都に向かい復活の主のご顕現を証しする者となったのです。人類に与えられた聖書を、主の十字架と復活を信じる信仰に導かれて行きましょう。

l  教会の歩みもイースターを超えてペンテコステに向っています。今日はもう一度、最後の晩餐の席上に目を留めてみましょう。ヨハネの福音書では過越の祭が、4回で来ると言われています。最後はイエス様が十字架に付けられた時です。今日心にとめたいお言葉は、「彼らを最後まで愛された」極みまで愛された。そのご愛とはどんなものであったかを知らせて頂きたいと思っています。この時の弟子たちは「自分達のうちで誰が一番偉いのだろうか」と言う議論が持ち上がった。(ルカ22:24)また、イエス様は誰を一番信頼しているか?と、そのようなことが雰囲気として漂っていたことがわかります。もう最後の晩餐であるのに、主の弟子たちの心は、人間的な競争心、優越感、支配欲というものが深く巣作っていたのです。

この食事の席上何が起こったのでしょうか。主イエス様は「イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れて、弟子達の足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。」(ヨハネ11:4~5)7重の謙遜の姿を示されました。足を洗うことはその家の奴隷の仕事です。弟子たちは交代で足を洗っていたかもしれません。誰もそのようなことをしませんでした。しかし、イエス様はまっすぐに席を立って行動に出たことです。

l  何よりも主イエス様は愛の模範を身近に示された。弟子たちは誰が、主イエス様が足を洗って頂くことは想像もできないことでした。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために来た。」この後、24時間以内に十字架の刑罰を受ける直前まで時が迫っている中で、主イエス様はご自分の愛を、余すところなく弟子たちに注いで下さいました。職場に一人残って、残務整理をしなければならないような時に、このイエス様の姿を思い出して、勇気と力を与えて頂きましたら幸いです。神の愛、アガペーの愛は、相手がどのようであれ、自己犠牲をいとわず注ぐことのでる愛です。

l  イエスを裏切って、銀30を受け取り、イエス様を離れて行くユダさえも、その罪を個人的な攻撃の矢面にせず、彼の人格を傷つけること無く、最後まで弟子の一人として、このアガペーの愛を抜かれたのです。弟子の足を洗って下さったイエス様の御愛は、「主は罪を憎みます。しかし、罪人を愛され、他の弟子たち同じように足をあらってその露を拭き取られた。」事です。十字架を前にし、切迫した中で、12弟子をこよなく愛し、余力を残さずに愛を注ぎ込んで下さいました。

l  人間に取って隷属することはつらいことですが、自発的な愛こそ、隠れた偉大な力を表します。イエス様の場合は、尊厳に満ちている神の子として、本当に麗しい事であったことでしょう。それは御子が「御父が万物を自分の手に渡されたと言う特権を自覚し、実践された神の愛です。ですから、神的な教師としての、権威を持って、後に残される弟子の足を、その汚れから脱われたのです。私たちも主にきちんと足を洗って頂き、世から聖別された者としての自覚に立ちましょう。

4月21日・礼拝メモ

マタイの福音書28:1~20節

空の墓と主のご顕現

御使いは女たちに言った。「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分っています。ここにはおられません、前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。・・・」(マタイ28:5~6)

<はじめに>今日も受難週を越え、イースターの朝を迎えています。地上おいてあと何回、この記念日を迎えることができるかと考えると、この記念の意味を少しでも深めて参りたいと思います。

l  今年のイースターを迎える前に、フランスのパリにあるノートルダム大聖堂が火災に見舞われて、大聖堂の一部が失われたと言うことです。世界の各地に、教会堂がある、しかしその会堂の礼拝者が少なくなってきているとか、このままでは復活された主を迎える場所として申し訳ない限りです。小さくても復活の主をいつでも迎えられる教会、そのようなリバイバルを待ち望む群でありたいと思っています。今年のレント(イースターまでの40日間)の営みの中で、マタイの福音書から語ることが多かったので、復活のメッセージもマタイの福音書に取り組んでみました。

l  福音の二大事実

私があなた方に最も大切な事として伝えたのは、私も受けたことであって、次の事です。「キリストは、聖書に書いてある通りに、私たちの罪の為に死なれた事、また、葬られた事、また、聖書に書いてある通りに、三日目によみがえられた事、それからケファに現われ、それから12弟子に現われた事です。・・・そして最後に、月足らずに生まれた者のような私にも現われて下さいました。」(Ⅰコリント15:1~8)

キリストの十字架と復活は、福音の二大事実です。キリスト教信仰の根拠であります。これなしにはキリストの高潔な人格も、深遠な教訓も天国を語る天国の譬の話も、まして人を救う力はない。「もしキリストの生涯が十字架で終わってしまったら、キリストを伝える意味も力もなくなってしまう。罪の赦しも、天国の希望も、神をまじめに信じて敬うことも、むなしくなってしまう」とパウロは力説しています。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として、死者の中からよみがえられました。(20節)十字架と復活が結びついているからこそ、十字架の苦しみは、すべで輝かしい栄光と、希望に変えられることです。

l  第一に、キリストの亡骸を治められたお墓は、ローマの兵士によって警備された事、そこに至るいきさつの事が書かれています。(マタイの福音書の記録の特徴)番兵たちは御使いを見て、恐ろしさのあまりに震え上がり、死人のようになりました。しかし、その御使いたちは女たちには「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分っています。」とやさしく呼びかけられました。「恐れる」と言う言葉が3回繰り替えされていますので、注目させて頂きたい。主を愛し主に従った人は恐れから解放されて礼拝に導かれるのです。

l  彼女たちは、イエス様の亡骸に香油を塗って最後のお別れをしようと、真実な愛の心が、番兵の警備も乗り越え、地震や天使の威光の光に恐れないで、墓に近づきました。愛とはそのような恐れを越えて、私たちを駆り立てます。更に空の墓を見せた天使は、主のよみがえりのメッセージをこの女性たちに託したのです。12弟子はこの時にはそのような使命は受けることはできませんでしたが、この空の墓に居合わせた女性たちが、この時立ち上がりました。彼女たちは一目散に弟子たちに空の墓の事実を伝えようと行動を起こします。

l  その途上で、今度は主ご自身が、復活の栄光の体を持って、顕現されたと言うのです。「おはよう、喜びがあるように」と言う。この挨拶の声は、生前聞いた事のある声でした。空の墓と復活された主を同時に体験したのです。そして復活の主を誰よりも最初に礼拝したのが、彼女たちでした。また番兵たちが「弟子たちがキリストの亡骸を盗んで隠している」との人間的な画策をも覆し。主は、今度はガリラヤに行かれ、12弟子にはっきりとご顕現なさいました。そして、神の権限を持って全世界に向かって、宣教の大命令をなされています。派遣の命令と、生ける神ご自身が同行される約束をして下さったのです。「ですから、あなた方は行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなた方に命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなた方とともにいます。」(マタイ28:1920

 

4月14日・礼拝メモ

イザヤ書38章9~22節

「贖い主、わたしの保証人」

「ああ、わたしの味わった苦い苦しみは平安のためでした。あなたはわたしのたましいを慕い、滅びの穴から引き離されました。あなたはわたしのすべての罪を、あなたの後ろに投げやられました。」(イザヤ38:17)

<はじめに>今日はパームサンデー、受難週に入ります。イエス様が地上で歩まれた最後の一週間です。イエス様が伝道に打ち込まれた3年半も短い時でしたが、最後の一週間は、特に一番大切な使命に向かって働きを集中された時でもあります。

日曜日:ロバの子に乗ってエルサレムの神殿に入京

  月曜日:宮きよめ、いちじく木ののろい

火曜日:反対者達との論争

水曜日:ベタニヤでの休憩

木曜日:最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、捕縛、裁判

金曜日:裁判、十字架、葬り

土曜日:墓に納められる

l  日曜日:生前、イエス様が語られた預言のお言葉通り、復活される。安息日は本来土曜日でしたが、初代のクリスチャンは主イエス様が復活した日曜日を、安息日として礼拝を献げることになりました。

l  今日は歓迎礼拝ですので少し視点を変えて、誰でもが例外なく直面する課題で、病と死の問題につて、ご一緒に考えて行きいと思います。この世に生まれた以上は例外なく死を迎えます。これは王様であろうと召使いであろうと変わりありません。平等と言えばそれまでですが、人類に与えられた人生コースです。ところが病は一様でない。健康で一生を過ごす人もあれば、生まれた時から障害や病を持って生まれることもあります。途中で大病を患う人、思いがけないけがや病気に遭うことも多々あります。できる限り健やかでいたい。素朴な願いとして、万人に共通しているかもしれません。比較的に故障もなく一生を送れる人も、また病の問屋のような生涯を送る人、当人は受けとって行かなければなりません(例・クリスチャン作家三浦綾子さん)

l  イザヤ書全体は詩文のような形で書かれていますが、36~39章は、歴史的挿入部分です。当時預言者イザヤは、少なくても4人の王様に仕えた。ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ王様。その中でヒゼキヤ王とは、心を一つにして、当時直面していた難しいパレスチナの情勢の中で、国の舵取りをしていました。例えて言いますと「大蛇(アッスリヤ帝国)の前に、野ねずみとカエルがいたとします。大蛇は野ねずみ(北イスラエル王国)を捕囚として飲み込み、今度はカエル(南ユダいく国を)を飲み込もうとしていました。カエル(南ユダ王国)は預言者イザヤとヒゼキヤ王の献げた祈りと信仰によって、神のご干渉による救いの御業を見ました。このことが実際に働かれる神体験と預言者はとらえたことです。

l  国が存亡の危機にさらされただけでなく、ヒゼキヤ王自身が、王様の後取りも無いままで重い病気で死にかけた。その危機の中で王は預言者イザヤの言葉聞きます。「主はこう言われる。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。治らない』とです。そこでヒゼキヤ王は顔を壁に向け、大声で泣き祈った。実際に祈りは答えられて、予想も出来なかった15年の延命を頂くわけです。(初代蔦田師の壮年部修養会も、この様な祈り会であったとか)

l  「自分の人生を中断する」と言う辛い思いは見事に神に訴えられ、また答えらえました。「私は言った、生涯の半ばで私はよみの門に入る。私は残りの年を失ってしまた。・・・牧舎の天幕はかたづけられ、反物を織っていた機織り機から外されて、切り取られる。」神様は切実な願を受け取って下さった。そして「主は私のためにすべてを成し遂げて下さいます。主よ あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手の業をやめないで下さい。」(詩篇138:8)と叫ぶほどです。

l  「生きているときこそ、神を賛美して、主にお伝えさせていただく」よほど練られたことの結果かもしれませんが、「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたの掟を学びました。」(詩篇119:71」と。多くの聖徒は証しています。地上にて賛美と祈りを持って病の試練を乗り越えていきたい。

l  しかし、なによりも心に留めたいお言葉は「私の保証人になって下さい(14節)」です。イエス様は私たちのために罪の償いをしてくださった。ヒゼキヤ王が願っていた救いはこの世の延命でしたが、それだけではなく、聖い御父の審判者に立つとき、私たちの傍らに立って執成して下さる。イエス様が保証人、羊飼い門番であることを思い巡らし、自分にとって天国が確実なものと信じ、この受難週を過ごしましょう。

4月7日・礼拝メモ

マタイの福音書21:23~32節

「主イエスの権威と豊かな例話」

ところで、あなたがたはどう思いますか。ある人に息子が二人いた。その人は兄のところに来て、「子よ、今日、ブドウ園に行って働いてくれ」と言った。兄は「行きたくありません」と答えたが、後になって思い直し、出かけて行った。(マタイ21:28)

<はじめに>4月の最初の聖日となりました。昨日は暖かい日でした。寒い日と急に夏日に近いような日が繰り返しています。体調管理が難しい時かもしれません。でも風邪を引かないで、お腹を壊さないでこの一週間も過ごしたい。来週は受難週に入ります。宮きよめといちじくの木が枯れた出来事は月曜日、今日の記事は火曜日に当たる。主はおそらく朝からエルサレムの神殿に出向いて、当時の宗教学者達と問答をし、大変忙しい一日を過ごされた。夕方には夕日の浴びる神殿を眺めながら、この世の締めくくり、終末に何が起こるかを説教された。

l  主イエス様はエルサレムの神殿で教えられた時に、その権威を尋ねられた。ことごとく敵意を表す彼らに対して、本当に知恵ある答え方をしています。主イエス様は人の心を見抜いて、ご自身の権威を直接証するのではなく、遠まわしに穏やかに、しっかりと答えられました。この世における権威が、もし権力と結びつくと恐ろしいことになります。イエス様は権威を振りかざすような威圧的な行動を避けて、謙遜に柔和に仕えて下さった救い主です。しかしその実質は天地の主、万物の供給者として偉大な権威を秘めておられたのです。聖書の完結文としてヨハネ黙示録がありますが、主イエス様は屠られた子羊として、褒め称えられています。「屠られた子羊は力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です。(黙示5:12)」

l  「私は神の御子である」ですから従えと言うような態度はあえて取りませんでした。「人の子も、仕えられるためにではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。(マルコ10:14)」ですから幼子から、弱さの中で戦っている人や、病と闘っている人のそばに立ち、ともに歩まれたことです。当時の祭司長達は、神殿に仕える奉仕を任されていた。彼らはその権威を、伝統的な祭司制度の中で、受けついでいた。ところが洗礼ヨハネもイエス様もそのような信用証明書を持っていなかった。しかし洗礼ヨハネは、旧約の最後の預言者として、揺るがされない権威を持ってヨルダン川で罪の赦しのバプテスマを授けていました。もしそうであるならヨハネの口から発せられた、メッセージは「悔い改めなさい、天の御国が近づいたから」この人は、預言者イザヤによって「荒野で叫ぶ者の声がする、主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。」と叫ばれた。ラクダの毛皮に身をまとい皮の帯を締め、その食べ物はイナゴと野密であった。エルサレムの神殿に仕えていた祭司であろうと、学者であろうと、近づいてくる人に向かって「まむしの子孫たち、誰が、迫り来る怒りを逃れようにと教えたのか、それなら、悔いあらためにふさわしい実を結びなさい」と、すさましい勢いで人々の迫り、ヨルダン川で洗礼を授けていた。

l  人々は洗礼ヨハネを預言者として信じて受け入れている。それなら彼の言葉を思い出していただきたい「私の後に来られる方は、私よりも力ある方です。私にはその方の履物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火でバプテスマを授けられます。」そしてイエス様は問答を「私もだれの権威によってこれらのことをするのか、あなた方にはいいません。」と、彼らの口を封じてしまったのです。

l  この二人の息子を持つ家庭の姿は、ルカの福音書15章の放蕩息子の記事の要約でるように思っていましたが(この新しい新改訳2017が出る前までは)、愛なる神の御前に取るべき私たちの姿である事を教えられます。「最初は断った、しかし、よく考えて、悔い改めて、帰って来た」兄と弟が入れ替わっていることだって、だれでもが救われるために、取るべきステップは変わりありません。受難週の前に20章でそのブドウ園のたとえが語られています。よくできたたとえの話で「現実にはあり得ないだろうな」と思いますが、天の御父の御思いを示し、福音とは神の備えて下さった方法で、深い感謝を持って受けとるものである。イエス様が人の心理をとらえて、編み出された例話です。

3月31日・礼拝メモ

マタイの福音書21:18~22節

「実をつかなかったいちじくの木」

道端に一本のいちじくの木が見えたので、そこに行って見ると、葉があるだけで、ほかに何もなかった。それでイエスはその木に「今後いつまでも、おまえの実はならないように」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。(マタイ21:19)

<はじめに>桜の花をながめながら、桜の木に向かって、「一回でいいのだ、あとは緑の葉を茂らせ、あの夏の暑さの茂みになってくれれば、もう十分だよ。」そんな語りかけをしたくなる時です。ソメイヨシノの満開の木を眺めていると、何か吸い込まれそうな感じがして、美しさとともに深遠さを感じます。

l  今日お読みしたこの聖書の箇所は、最初に聖書に触れた、その時の感想を思い出していました。イエス様も普通の人ではないか、おなかがすいて、気持ちが落ち着かず、道の傍らから、実を取ろうとして茂みをかき分けてみると、葉は生き生きと茂っていたのですが、実らしき物が見当たらない。そのために感情を出したのだと。

l  野山を駆けまわってアケビを探したことがあります。アケビは葉を茂らせ、生き生きと陣営を構えています。その自然のアケビ棚を見ながら、次は熟れているかどうかを触って見て、もうすこし、これは素晴らしい、熟れている。口を開ける前、鳥がついばむ前の、アケビで柔らかさといい、申し分なしのアケビの実に、「思わず、しめた。見つけた。」そのうれしさ、その感動を今でも再現できます。イエス様もきっとそのような思を持って、いちじくの葉の茂みを覗き込んだことでしょう。いちじく木は、葉がでる前に、花と実が同時について、それから葉が出、葉からの養分を吸って熟して行く、「一年間で10ヶ月実が付けることができる。」と言われています。今ではおいしい果物がたくさんありますが、当時は貧しい者たちの食物、果物として一般的ものであったことでしょう。このいちじくの木を見て、「葉が茂っているのに、実を一つも付けていない、のさばっている、役に立たない、腹いせに呪うのだ」としたらイエス様も普通の人ではないか、そんな印象を第一印象として記憶しています。そして聖書全体の真理の展開に沿って眺めて行きますと、深い思い巡らしと教訓と、信仰的な生き様の教えが満ちあふれてくるはずです。

l  いちじくの木の話をします。ブドウの木も、いちじくの木も、イスラエル民族を象徴しています。詩篇80篇には、「あなたはエジプトからブドウの木を引き抜き、異邦の民を追い出して、それを植えられました。・・・途中から、囲いを取っ払って道行く人に摘み取るままにされた。林の獣たちもこれを食い荒らしています。なぜでしょうか、万軍の主よ、どうか帰ってきて下さい。天から目を注ぎ、ご覧になってください。このブドウの木を顧みて下さい。またイザヤ5章には、当時のぶどう園の姿が描かれています。我が愛する者は、良く肥えた山腹に、ブドウ畑を持っていた、収穫時に備えてあらゆる準備をして、「さあ収穫だ」と言うとき、そのブドウをもぎ取って食べたら、酸いブドウができてしまった。商品としてとても、市場に出せるふくよかな、甘い、熟したものではなく、劣悪な状態でした。その主人が怒りを燃やして「もう勝手にしろというばかりに」すべての囲いを取っ払って旅人、他国の人に食べさせた。そのときの状況を思って、イエス様の心は憤ったのではないでしょうか。

l  ヨハネ15章で語っているお言葉を思い出して頂きたい。「わたしはまことのブドウの木、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ものはすべて、もっと実を結ぶように、刈り込みをなさいます。(ヨハネ15:1)」真のブドウの木、「真」という言葉に3重の赤丸を付けて頂きたい。神の民として選ばれたイスラエル民族は、酸い葡萄となって、神の御口から吐き出されるような歴史に対して、「御子イエス様はご自分の救い主の生涯を証して、なおかつご自分を救い主として信じて受け入れる人々の祝福の基となるために希望の印として、私たちに正真証明の実を豊かに結ばせて下さる。」と言のです。御霊の実は愛喜び平安、寛容親切善意 誠実柔和自制です。このようなものに反対する律法は在りません、全く拘束される根拠はありません。そして勇気を持って、伝道の実を結ぶために知恵と努力を傾けましょう。

l  信仰とは御父が、出し惜しみせず、与え切って渡された御子を、心の真ん中に据えることです。また、全能の神を愛して、高く目を上げることです。この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』、富士山を湘南の海に移すこともできる神を信じましょう。

 

3月24日・礼拝メモ

マタイの福音書21:12~17節

「わたしの祈りの家」

そして彼らに言われた。「わたしの家は祈りの家と呼ばれる」と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを「強盗の巣」にしている。(マタイ21:13)

<はじめに>いのちが芽生える春の季節、精神が病んでいる人には、大変な季節であるように聞いています。なぜだろうか、大きな期待とその反動のような不安の重圧を感じて、押しつぶされてしまうようだ。球根を植えてチューリップが芽を出すのは自然の期待ですが、スミレの花は、よくもまあ、こんなところでけなげに花を咲かせているものだと驚かされます。大きな牛や馬も出産し、かわいい雀も雛を抱え込む、嫌われものカラスの鳴き声も、一段と大きく響き渡る。

l  自然界が一斉に生命にみなぎる時、それに比べて自分は、秋の枯れ草のように、どうしても内側から生かされるような力がわいてこない、自分が取り残されているような錯覚がますます広がって行くことがあるでしょう。信仰的また霊的なサポートが必要です。例話「ブラザーローレンス、敬虔の生涯」

l  「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶことを喜び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、わたしの家、わたしの城壁の内で、息子、娘に勝る記念の名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。・・・安息日を守ってこれを汚さず・・・わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のささげ物やいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。(イザヤ56:4~7)」

l  イエス様が伝道に打ち込まれた3年半の生涯の中で、エルサレムの神殿を浄めたのは2回、福音書に記されています。

1回目はヨハネの福音書2章です。神殿の中で、牛や羊や鳩を売っている者たち、座って両替をしている者たちを見て、牛も羊もみな神殿から追い出し「それをここからもって行け、わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」と言われた。普段は柔和で優しい主イエス様が急変して荒々しき態度を取られたので、弟子たちは「あなたの家を思う熱心が私を食い滅ぼす(詩篇69:9)」のみ言葉を思い出しました。これは神の御前に断食して身を清めている人を揶揄した言葉です。一方、傍で聞いていた宗教学者・指導者達は「こんなことをするからには、どのようなしるしを見せてくれるのか。」と見ていました。主イエス様は彼らに「この神殿を壊してみなさい、わたしは3日でそれをよみがえらせます。」と言われました。それを聞いて宗教学者・指導者達は、ヘロデ王が46 年をかけても、まだ完成に至らない神殿を3日でよみがえらせるのかと言ったのです。けれども弟子たちは、主イエス様の仰せられた言葉から、神殿はご自分の体のこととわかったのです。

l  それから3年が経っても、また同じようなことが相変らずなされていた。それを正す主イェス様の宮浄めの記事を共観福音書は記しています。今度は、相手の指導者達にしてみればひどいと思われる言葉が語られています。「強盗の巣(エレミヤ7:11)」と。主イエス様のしたことは祭司長、律法学者、民のおもだった者たちにとって、許しがたいことでした。

l  説教の題について「わたしの家は祈りの家」ではないのか「わたしの祈りの家」でないのか、夜中に起きて考え直した。「教会は祈りの家」これは昔も今も変わらない大原則です、また教会の大切な使命です。祈祷会の盛んな教会は、幼子が成長するように、どんどん教会を成長させてくださるでしょう。

l  前から指定するか、後ろから説明するかの違いであることが分かった。前から指定すると「私の祈りの家」、後ろから説明をくわえると「わたしの家は祈りの家」となるのです。イエス様ご自分の御名を持って指定したわたしの祈りの家であるからこそ、あえて身の危険をさらけだし「わたしの祈りの家」と考えておられたのではないでしょうか。へブル書のお言葉に目を止めてみましょう(へブル10:11~23)。そして実際にイエス様の祈りの模範とユーモラスな勧めのことばに目を留めてみましょう(ルカの福音書11:1~8)。

 

3月17日・礼拝メモ

マタイの福音書21:1~11節

「ナザレから出た予言者イエス」

「こうしてしてイエスがエルサレムに入られると、都中が大騒ぎになり、「この人は誰なのか」と言った。群衆は「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言っていた。(マタイ21:10~11)

<はじめに>梅ヶ丘の梅は散り、神学院の桃の花が満開になりました。春たけなわというところでしょうか。寒さの季節から春霞がかかり、「杉林の中で暮らしても花粉症には何の心配も無い」と。高をくくっていたところ、そうではないのだと語ってくださっているようです。とうとう花粉症のような症状が出てきましたので、少しは花粉症で苦しんでいる方の気持ちも同情できるようになりました。今は教会の暦ではレントです。クリスマスを迎えるアドベントが一ヶ月間ありますが、レントは受難週・イースターを迎えるための40日間です。

l  今年の受難週は414日(聖日)から始まって、20日(聖日)復活祭イースターとなります。今日の聖書の記事はパームサンディーと呼ばれる棕櫚の聖日の出来事です。イエス様がロバの子に乗ってエルサレムの都に迎えられたことです。教会こども賛美歌に「私たちはロバの子です・・・」があります。主がお入り用なのです。柔和のロバの子です。ソロモン王の時代以降、乗り物は馬が主役で、ロバは夫人や子供達の乗り物でした。また荷物の運搬用に使われたのです。

l  柔和さというものは、とても優れた宝物です。イエス様は山上に説教の中でおっしゃいました。「柔和な者は幸いです。その人は地を受け継ぐからです。(マタイ5:5)」荒々しいご主人を相手に、柔和な優しい奥さんがいたとします。短時間だと主人負かされてしまいますが、長い時間をかけて戦うと、柔和な奥さんが勝つのです。最後には、家庭を治め、御主人悪戦苦闘で蓄えた富を譲り受け、天の御国の切符も手に入れ、神の家を継ぐのです。強い相手に対して、何も太刀打ちできないような弱さを嘆かないで主を見上げましょう。かえって豊かな富を手にするのです。まさにイエス様はロバの子に乗って、「この小ロバ私が乗って大丈夫かしら」とイエス様は優しい心遣いをしながら「主がお入り用なのです」とおっしゃるのです。天の御国では弱さ柔和さは、純金のような輝きを放つに違いない。ゼカリヤ書9:9~10節「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなた方の王があなた方のところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ロバに乗って。雌ロバの子である、ロバに乗って。わたしは戦車をエフラエムから、軍馬をエルサレムから絶えさせる。戦いの弓も絶たれる。」パームサンディーは真の意味での凱旋的入城でした。

l  エルサレムの都の人々はどのようにイエス様を迎えたのでしょうか。彼の弟子たちは自分の上着をロバの上に掛けました。そしてその上にイエス様が乗ったのです。

旅先の巡礼者達は自分達の上着を、木の枝を道に敷きました。マタイの福音書では「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。(マタイ21:9)」マタイの福音書イエス様が王であることを強調しています。そして群衆は「この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ」と言った。

l  「ガリラヤのナザレ出身の預言者」との言葉は、イエスを現した言葉の一部分的に過ぎない事です。キリストの弟子であったナタナエルは「ナザレからなんの良い者がでるだろうか」と見下した意味も含めて言いました。またペテロは「あなたは生ける神の子キリストです。」と模範解答をしましたけれども、それらはイエス様の全体像の一部分にしかすぎません。私たちが天の御国に行き着いたら、驚くような麗しいお人柄に驚かされることでしょう。

l  「私たちが知るのは一部分です、預言するのも一部分であり、完全なものが現れたら、部分的なものは廃れるのです。私は、幼子であった時には、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことをやめました。今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔をあわせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知るようになるのです。こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。これら3つです。その中で一番優れているものは愛です。」(Ⅰコリント13:9~13)私たちが天の御国でイエス様とお会いしたら、」私たちがこの世で、悲しんだり、嘆いたり、悔んだり、苦しんだ罪と戦いで悪戦苦闘した出来事が、感激と感謝と光栄に変わるのです。主におすがりしたことの素晴らしさ、罪の生涯に歯止めをかけて頂いた十字架を深く思うことで、胸が張り裂けそうな思いになるかもしれません。

3月10日・礼拝メモ

マタイの福音書14:22~33節

主よ。助けて下さい

イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたのです叫び出し、「主よ。助けて下さい」と言った。(マタイ15:29~30)

<はじめに>今日は歓迎礼拝です。牧師も歓迎されて、講壇に迎えられまして感謝です。本当に寸足らずのものですが今年もよろしくお願いいたします。教会には救いという宝物があります。宝の価値を知らない方もいるかもしれません。人は素晴らしい宝石以上の宝物があるとしたら、穏やかではありません。我先に奪い取るようなことが起こるかもしれません。今日はその宝物を皆様に見て頂く幸いな歓迎礼拝です。

l  私たちの人生は、不安や恐れや心配に囲まれています。さみしさや、悲しみや、憂いに囲まれているかもしれません。どうしましょう。どうしましょうといったってどうすることもできない。もう人助けはごめんだ、いちいちかまっていたら、日が暮れてしまう。早く目的地につきたい。目的地はどこですか。天の御国です。お酒よりもっとうまいものがある。そう言って話してくれた教会の渡辺倉蔵さんがいました。無害でこころを満たしてくれる食べ物、飲み物を出すような教会であり続けたい。

l  今日お読み頂きました聖書の中に、そのようなヒントが隠されています。探って参りましょう。湘南の海は穏やかで美しい、冬でもサーフィンを楽しんでいる人がいます。その海ですが、地震がやってきて津波が押し寄せたら、恐怖の海に変わる。東日本大震災から8年経っていますが、未だに家族が見つからない人、復興がはかどらす、荒れ果てたふるさとをどうすることもできない人たちも沢山います。聖書の最後の書ヨハネ黙示録には、海は恐ろしい不気味なものとして、描かれています。「また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地はすぎさり、もはや海もない。」さらにお言葉は・・・「神は彼らの目から、涙をことごとくぬぐい取って下さる。もはや死もなく、悲しみもなく、叫び声も、苦しみもない。以前のものは過ぎ去ったからである。」昔の人は海は魔物だと思っていたらしい。

l  <波の上を歩く奇跡>

ある人は考えました。どうしたら、波の上を歩けるか。片方の足が沈まないうちに、もう片方の足を出して、体重をかける。その素早い動作ができれば沈まないで歩けるはずだ。理屈を言えばそうかもしれない。でも足を出す前に沈み始める。重力が働いているからです。人工衛星の船内では、波の上を悠々と歩ける。イエス様もペテロもそのときは重力がOffに切り替わって、重力が働かないでいたかもしれません。確かにイエス様は人にできないことを奇跡としてたくさん聖書の中で見せてくださいました。イエス様は私の心のざわめき、不安恐れを沈めくださいます。たとえおぼれかかっていたとしても、イエス様はペテロに手をさしのべて下さったように、あなたの手を握って、不安や恐れや悲しみや苦しみの中から救ってくださる救い主です。イエス様はこの前後にお祈りをなさいました。この世に使わしてくださった御父と会話をするためにです。私達もお祈りします。目には見えませんがこころの叫びや願い事を聞き届けてくださるお方に、お祈りし、またお話し、会話を楽しみます。イエス様は神様であられるのでお祈りは必要ないお方ではありますが、あえて人の子として祈られた。

l  <イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで下さった>

ペテロは勇気を出して舟から一歩踏み出し、水の上を歩き出しました。しかしイエス様から目を離して、風と波を見たのは間違いでした。怖くなって、沈みかけたのです。ペテロが叫んだのはそのときでした。「主よ。助けてください」まさにその瞬間でした。主は強い御手をさしのばし、ぎりぎりでおぼれるところから救い出されました。何世紀にもわたり、意気消沈の海に沈みそうになっている数多くの人たちは、主に叫び声を上げました。「主よ。助けて下さい」主はそのような人たちを苦しみから救い出された。キリストはあわれみを持って強い御手を差しのばし、そのような人たちを救い出されたのです。

3月3日・礼拝メモ

使徒の働き20:17~38

「神とその恵みのみことばに委ねて」

「今私は、あなた方を神とその恵みのみことばに委ねます。み言葉はあなたがたを成長させ、聖なる者とされたすべての人と共に、あなた方に御国を受け継がせることができるのです。」(使徒20:32)

<はじめに>一年間は早いものです。今年も年会を迎えました。年会から年会までと言うのが私たちの教団の姿勢です。神様からの任命は基本的には一年間です。一昨日は神学院の卒業式で2名の方を伝道者として送りだすことが出来ました。本当に焼け石に水のような、とても働き人の少ない時代で、大変な中にありますが、それでも主は憐れんでくださって、神学院の使命が果たされることは憐みです。

l  君主欄の花が二輪だけ咲きました。当初の計画では卒業式に間に合うように、営繕の部屋で暖かくして少しでも早く咲かせようと取り組んだのですが、間に合いませんでした。でも二名の卒業生に対して、3月1日には二輪だけ咲いたのです。

l  ところで、今日お読みした場所は、パウロの第3回伝道旅行の復路であります。小アジアのエペソの教会に立ち寄りたかったのですが、時を急いでいたので、船が立ち寄ったミレトスに、エペソから教会のリーダーたちを呼び集めて、メッセージを送ったのです。アンテオキヤから出発した彼らは異邦人教会からの豊かな伝道資金を集め、迫害によって散らされたエルサレムの教会に届けると言う使命もありました。そして、ミレトスに集まった長老(教会の指導者)にメッセージを語り伝えたのです。今日はこの箇所から、3つの事についてお話しをします。

l  第一に牧者の模範としてのパウロ

エペソに足を止めた3年間はパウロにとって異例であった。エペソには人間が作った大きな偶像アルテミスの神殿が据えられた場所です。私の故郷長野は、善光寺があります。長野駅から本堂まで参道が続きます。その参道にはたくさんのお店が並び、「善光寺なしにはやっていけない」と商売の同業者はみな口をそろえて、商売繁盛のために善光寺に寄付して、長野の商店は営まれています。そのような参道の脇に、なんと「復活の長野キリスト教会」と言う看板を掲げた小さな教会があった。雪深い飯山市から、電車で長野駅に出て、確か自分の担任の先生が出入りしている教会かもしれない。そのような思いで立ち寄った事がありました。それは私にとって初めて教会に踏み入った時です。その教会でお昼を御馳走して歓迎して下さった事がとても感動的でした。そして今こうして救われて牧師をしているのですから感謝です。伝道者パウロも、数々の試練の中で、謙遜の限りを尽くして、涙とともに主に仕えてきました。人に仕えるのでしたら、気が向かなくなったら投げ出しても構わないかもしれませんが、主に仕えるのですから忍耐強く使命を果たさせて頂くのです。「神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰」を力強く勧めて、教会の礎を築いて行ったことでしょう。誰かが注ぎだされなければ伝わらないキリストの愛があるのです。

l  第二には長老たちへの勧告です。

「あなた方は自分自身と群れの全体に気を配りなさい。神がご自分の血を持って買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなた方を群れの監督にお立てになったのです。」牧師はもちろんの事、教会に仕えてきた方々も、このような責任を委ねられています。自分の身の程を知って、正しく自分を見る目がないことがあります。何者かの如く思い上がったりしないことが大切です。また、自分の事だけではなく、群れ全体に気を配る事が出来る心の広い器が必要です。教会はキリストを信じて、心に救いの喜びを持って集まる人たちの所です。そうでなければ今日集えた人でも、サタンの攻撃や、世の誘惑によって、次の集会には誰も来られなくなるようなことだってありうるのです。サタンは絶えず熱心なクリスチャンを狙ってきます。荒々しい狼が入ってきたら警戒しますが、サタンは小羊のような、優しい誘いのことばで、キリストの教会を活動を無にしてしますのですから気を付けなくてはいけません。

l  第3にパウロの召命への応答です

パウロは自分に与えられた使命を「天からの啓示」としてを受けとりました。そしてその厳かな召命に答えて一生を献げました。彼とていつまでも生きて伝道できたわけでもありませんで、もう教会を神の御手に委ねて、区切りを付けなければなりませんでした。「今私は、あなた方を神とその恵みのみことばに委ねます。み言葉はあなたがたを成長させ、聖なる者とされたすべての人と共に、あなた方に御国を受け継がせることができるのです。」最終的には神のみ言葉に委ねるわけですが、本当にお言葉に生き続けたら聖句は力を発揮します。そのようにお言葉を握って、立ち上がりましょう。

 

2月24日・礼拝メモ

エペソ人への手紙5:1~20節

「御霊に満たされなさい」

「機会を十分に生かしなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころが何であるかをさとりなさい。…ぶどう酒によってはいけません。…むしろ、御霊に満たされなさい。」(エペソ5:16、17)

<はじめに>

「神に愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい」子どもは父親に似ると言われます。良きにつけ、悪しきにつけそうでありますが、良い所を似てくれれば申し分ありませんが、悪い所を似るのですから困ったことです。

l  神の子である私たちは御父なる神に倣うと言う途方もない高い標準を掲げます。いかがでしょうか。そのためにはまず、古い習慣を脱ぎ捨てましょう。古い人とはイエス様に出会う前、新生以前の考え方や生き様です。世の人は言います「少しずつ改装して行けばそれだけでも満足すべき成長だと。」しかし、人の心を知り尽くした。使徒パウロは命じます。「思い切って捨て去れ」それは心の霊によって新しくされることです。「この世と調子を合わせてはいけません。いやむしろ、神の御心が何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ12:2)」そして新しい人を着るのです。

l  御父に倣うことは御子イエス様に倣う事でもあります「あなたの愛は、ぶどう酒に勝って麗しく、あなたの香油は香り芳しく、あなたの名は、注がれた香油のよう。そのために、乙女たちはあなたを愛しています。」と雅歌書には記されています。

l  イエス様が十字架に付けられる前、ベタニヤホームで心身をくつろわせ、厳しい十字架に向かわれました。その時マリヤは非常に高価なナルドの香油の壺を割って、イエス様の葬りのために備えました。イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。キリストの品徳・品性・言葉ほど、人類が体験できるかぐわしい香りはありません。このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。(コロサイ2・3)。このキリストのうちにこそ、神の満ち満ちた御性質が形をとって宿っています。(コロサイ2・9)

l  先週は「聖霊を悲しませてはいけません。」と語らせて頂きました。聖霊は優しい控えめなお方で、御父のように強く命令をもって諭すことより、涙を浮かべ、悲しみの傷みと苦しみの中で私たちを矯正されます。御霊が悲しませていると感じたその時、心の転換をしましょう。

l  今日は聖霊に満たされる事を思い巡らします。聖霊に満たされると言うことは、聖霊のバプテスマを受けることです。この地上から、復活し、超スーパー的な復活体を持って40日間、弟子たちに現われて下さいましたが、とうとう天の御父の元に帰る時が来ました。イエス様は御言葉を弟子たちに残されました。「命じられた」権威と力を込めた命令です。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなた方は間もなく聖霊のバプテスマを授けられるからです。使徒1:4~5」それから祈り続けて、10日目、イエス様が復活して50日目に、ペンテコステの聖霊のバプテスマが起こりました。その時のことは聖書の記す通りです。「五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。すると天から突然、激しい風が吹いてきたような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響きわたった。また炎のような舌が分れて現われ、一人一人の上に留まった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろな言葉で話し始めた。」その後もしばしば弟子たちは、この時に体験した喜びの油を注いで頂き、イエス様の福音を伝える弟子に変わって行きました。

l  「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って揶揄されていますが、お酒ではありません、聖霊のバプテスマを受けて、圧当的な罪の赦し、神の愛を無限に注いで頂き、心の解放による自由なたましいに生まれ変わりました。聖霊のバプテスマは無名な弟子たち、僕やはしためにも注がれたことを覚えましょう。貴方にも私にも注がれるはずです。聖霊に満たされた恩師<蔦田真実牧師>の思い出があります。聖霊様が御父の手から、御子の手に渡され、ついに私たち一人一人の心に賜物として届けたれたことを実にわかりやすく解き明かされた。聖霊はプレゼントのように手渡されることを考えて、まるで人格である聖霊様の心を無視して、いとも簡単に手渡されるその姿の中にこそ、御霊の謙遜を感じませんか。それはまた、明確な徴として、私たちの心に届けられたことです。

2月10日・礼拝メモ

ルカの福音書8:40~42、49~56節

「死んだ娘をよみがえらせる」

人々はみな、少女のために泣き悲しんでいた。しかし、イエスは言われた。「泣かなくてもよい。死んだのではなく、眠っているのです。」(ルカ8:52)

<はじめに>

l  青森教会の開拓のころ、家内を含めて56人の方が礼拝に集まっていました。ある日突然、韓国から日本に住む同国人にハングルを教えるために遣わされた方が教会に来ました。礼拝を終えてから教会に来られたいきさつを話された。小学4年の娘がいます。書道で賞をとるほどの腕前で、ご両親の期待をはるかに超えた、優秀な成績で日本の学校に通っていた。その娘が、突然白血病となり、弘前の大学病院に入院しているので祈ってほしいと言う事でした。

l  それからしばらく私たちもその娘さんを見舞いました。家内が紙芝居を通してお話をしましたら、素直にイエス様を信じて救われました。開拓伝道の中で、魂が救われる事はこの上もない喜びでした。しかし、その年の秋に、娘さんは天に召されて行ったのです。会堂も無い借家教会でしたが、仙台あたりから韓国人の方が沢山、葬儀に来ると言うので、近くの教会の会堂を借りて葬儀を行いました。十和田教会の先生が、前夜式で語られた御言葉が、このヤイロ娘の記事でした。

l  ヤイロは、重い病気にある12歳の一人娘を何とか助けてほしいとしきりに願った。

病気が重い中で、一刻も早く家に来てほしい。しかし途中で12年間、病に苦しむ血漏の女の人がイエスの衣にさわって癒された。思わぬ道草を食ってしまった。ヤイロに伝言が届き、娘が死んだと言う通知でした。ヤイロはもはやイエスを煩わせることもないと思ったかもしれない。しかしイエスは「ただ信じなさい。むすめは救われます。」と言いヤイロの家に向かった。人々はもう手遅れと思っていたが、イエスは家の中に入って行ったが、そこで泣き悲しみながら葬式の準備に取りかかっている人たちに、家から出るように命じられた。特定の人たちだけ家に入ることを許した。イエスは、娘のそばに近づき、「子どもよ。起きなさい」と言われた。すると、娘は直ぐに立ち上がった。両親も、イエスを嘲笑っていた人たちも、ただ驚くばかりであった。

l  第一に「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます。」

この父親ヤイロが伝言を受けた時の心境を想像してみましょう。やっぱり間合わなかったか、残念だが仕方ない。もうこれ以上は頼み込んでも娘は戻ってこない。先生をこれ以上家に招いて煩わせることもないだろう。そんな重圧がかかった中で、心が動揺しかけた時でした。イエス様の方から、不思議な力強い言葉を頂きました。彼はイエス様のことばを信じたのです。ですからヤイロにとっても大切な語りかけであったに違いない。これは今の時代の私たちにも通じる信仰の世界のルールです。疑わないでイエス様のことばを信じて、前に進むときに、主の憐みの奇跡がなされる。私たちは神を離れて魂が死しんでいる状態である事を聖書は語っています。イエス様は息を吹きこんで永遠のいのちに生かしてくださる心の救いに通じる例証でもある。ところであなたの魂は生きていますか。

l  第二に「泣かなくてもよい。死んだのではなく、眠っているのです。」

イエス様は魂を呼びさまされた。この時は蘇生と言う奇跡を持って臨まれた。同じような奇跡の出来事がヨハネの福音書にも書かれています。死後四日過ぎて、墓に葬られたラザロを、墓の中から呼び戻された奇跡が書かれています。これらの奇跡は、最後の奇跡中の奇跡、イエスご自身が罪の身代わりとして、十字架で死に葬られて墓に収められ、完全に死なれた者となりましたが、その死の墓を空にして、復活の栄光の体によみがえられた出来事に繋がっているのです。眠っているのですから、目を覚ます時が来るのです。人類を死の苦しみと嘆きから解放し、神と共に永遠を生きる希望が与えられる。これこそ私たちにとって、本当の救い、魂の救いです。主イエス信じて受け入れる人には約束されているのです。

l  第三に「その子に食べ物を与えるように命じなさい。」

イエスはよみがえった娘に食物を与えるよう指示したことです。イエスの奇跡は癒された者が、更に健康で過ごす事が出来るようにしてくださいます。罪深い私たちが、罪赦されて生きている。それ自体、奇跡としか言いようがない。そして私たちが、更に健康な生活ができるように、イエスが身体的必要も満たして下さっているのです。少女がよみがえったことで、人々が有頂天になっているとき、イエス様はこの少女の回復の人生を支援するため、食べ物を与えて元気つけた。先の先まで心を遣うイエス様の導きは今も変わっていません。

2月3日・礼拝メモ

エペソ人への手紙4:1~16節

「御霊の一致を熱心に保つ」

謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛を持って互いに忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。(エペソ4:2~3)

<はじめに>

l  先週は教会総会が開かれ、今年度の計画が立てられました。ご協力に感謝致します。今週から新しい歩みの中に導かれたいと思います。インフルエンザが猛威を振るっていますので気を付けてください。年頭より獄中書簡のエペソ書を開いています。私達の教団創設者の蔦田二雄師も太平洋戦争の終結まで丁度2年間、獄中で過ごされました。インマヌエル神ともにいます。その信仰の原点は獄中を通して神様が語って下さったビジョンによるものです。昭和17626日、ホーリネス系の伝道者が検挙された日でもあります。

l  先週は人知をはるかに超えたキリストの愛が、人類に注がれていることを語らせて頂きました。その永遠の愛は広さも、深さも、高さも、長さもあると伝道者パウロは祈りの中に表現しています。

l  広さ…全人類を包むこと。すべての世代の人類に及ぶ広さです。人類全体を抱擁する愛です。東京オリンピックパラリンピックまで一年、世界中の人が集まるのですから、どのような国の人々をも包み込むほどのキリストの愛を先ず、自分自身が体験して行きたい。自分の殻を破れないもどかしさがありますが、いままで大の苦手であった人付き合いも、勇気を出して、勇気を持って挑戦できるようになりたい。

l  長さ…永遠から永遠へ、人の誕生から死に至るまで変わらない愛。1章では「神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。」とあります。私たちの心には、永遠を思う思いを与えられたと聖書は書かれています。それは事実です。生まれる前から覚えられていたことは救われた後にわかったことです。キリストに出会うとその以前も、以後も生かされてくるのです。主は遠くから私に現われた。「永遠の愛を持って、私はあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。(エレミヤ31:3~4)

l  高さ…いかなる敵も届きえない、奪い取ろうとしても奪い取ることは出来ない愛です。その悪のゆえに、天使の長であったサタンでも突き落とされてしまった。そこから発する権威ある高き愛です。天よりも高く登られたかたはイエス様です。それは低い地上にも来られて足をおろされた方でもあります。

l  深さ…いかなる被造物によっても測りえない愛。大自然は第二の聖書と言われ、どんな被造物も証しえない神秘極まりない秘め事を含んだご愛です。それはまた人々のうちで最も卑しい、あるいは道徳的堕落した人々にさえ届く愛です。実際的見地からすると、あらゆる時代、あらゆる状態、あらゆる人類を抱擁する神の愛をまとめて、あらゆる人に教会が伝道する基礎を提供している。この愛をまとめた言葉が「ヨハネの福音書3:16」です。

l  わたしたちは神の招きを受け、喜んで応答したのです。単なるお客さんではありません、雇われ人でもありません。子としての身分を授けられ神の子としての立場へと招かれたのです。「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子とされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)

l  クリスチャンの基本的共通点、7つの一つがあげられています。体は一つ、御霊は一つ、一つの望、主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、神は唯一それが神に召された者の特質なのです。パウロはそれほどまで強烈に私たちが一つである事をここで強調します。これら根本的な7つのことについては一つであり、それらは、私たちすべてにとって共通の宝物なのです。パウロは神につて注意深く語っています。神の御霊は一つ、主キリストは一人、父なる神は唯一と述べています、御霊、御子、御父の三位一体の神について語っています。三位一体の麗しい一致にすでに、私たちのモデルがあるのです。私たちの一致の土台があることで多様性が生かされるとしたら、教会は本当のキリストの体であることでしょう。

 

1月27日・礼拝メモ

エペソ人への手紙3:1~14節

「この宝を異邦人に」

「また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現がどのようなものかを、すべての人に明らかにするためです。(エペソ3:9)

<はじめに>教会総会を前にして、パウロと一緒に、苦難の中に輝く福音の恵みを思い巡らしたい。この手紙は、獄中からエペソの教会に送られました。獄中で囚われの身でありながら、神の働きは鈍く衰えていったでしょうか。いやほとんど変わらない勢いで闇夜を照らす真の光として、この初代教会は導かれて行ったことです。パウロ自身はローマの獄中から、小アジアのエペソ周辺の教会に宛てた手紙が、獄中書簡(エペソ・ピリピ・コロサイ・ピレモン)として書かれて送られました。

l  昨年度は、病の中に囚われの身となられ、厳しい試練の戦いを強いられた方がおられます。天からの癒しと豊かな慰めがありますように祈ります。伝道者パウロも、イエス様に次ぐ苦難の僕として、歴史上福音に貢献できた器です。先週のメッセージは二重の和解がなされたことをお話し致しました。水と油は静かにしておくと分離します。味の決め手となるドレッシングはその両者をまぜ合わせることによって、絶妙な味を引き立てるように用いられます。ユダヤ人は油、それ以外の人種は真水のように考えると、そのままだと分離してしまって、両者の間には深い溝がありました。一般の教会の中にも信仰年限の長い人々と、最近教会に見えられてイエス様を信じて、心が生まれ変わって生き生きとして信仰に励んでいる方もいます。信仰の成長は、必ずしも培われた信仰年限によるものではありません。年若くしても聖書の救いの信仰生活をどんどん吸収して行く人たちもいるのです。

ユダヤ人教徒の背景を持ったクリスチャンと、全然そのような背景を持たない異邦人クリスチャンがエペソの教会の中に存在していましたが、両者ともに真の意味では神から離れ、自分勝手な道を進んでいましたが、豊かに恵みを注いで下さる神様と和解する必要を教えられ、神と人(自分自身)が真に和解すること事を持って、実に神は二重の和解を実現して下さったと言う事が、このことばの背後にあるメッセージです。

l  パウロ自身は、ユダヤ人の中でユダヤ人として教育されてきました。その熱心は誕生したばかりのキリスト教徒を、信条のゆえに迫害をするほどでした。しかし福音書の主であるイエス・キリスト、復活されて生きておられるイエス様が、直接彼の迫害途上において、彼に出会ってくださいました。天から現われたイエス様は、この迫害者を、キリストを宣伝える神の聖徒に造り変えてくださったのです。神の奇跡の御業です。

l  彼はキリストにかかわる出来事を、特に救い主イエス様が十字架に賭けられる意味を、旧約聖書と新約聖書がまだ確立されていない初代において選民ユダヤ人が救い主イエスを拒んだゆえに、律法を持たない異邦人が、その救いに導かれて行く、もはやユダヤ人も異邦人も何の差別もない事。福音は全世界の富となって備えられたものであることが事が解って、共同の相続人であるがゆえに大きな希望と勇気が与えられたことです。彼はあえて、異邦人に宣伝えたことによって苦難を受けている。ですからここでは、自分自身が囚人である事で失望し、悲しむ事なく、パウロ自身が囚人である事を、あえて挿入して語っているのです。

l  神は多くの秘密を有しておられます。そして神の御旨によりその真理を、時が来て、一つ一つ明らかに示して下さると言うのです。パウロはその事を、神の奥義として語っています。極めて重大な出来事であるゆえに、パウロ自覚して戦慄しています。私たちも今、ここに立って、特にユダヤ教的な背景を持たない異邦人であり、また同胞のために福音を委ねられている者と信じて感謝します。すなわち「キリストの測り知れない富を異邦人に宣伝える事」がそれです。古い契約の下では、イスラエルの国籍はなく、約束された諸契約に縁はなく、希望もなく、神もなかった異邦人が、新しい契約(新約聖書)の下では、異邦人もイスラエルと共に神の世継ぎであり、同じ家族であることを、パウロが身を持って証したかったことでしょう。私たちも同胞に対して、同じような使命に満たされて進み行きたい。そのためにパウロの祈りに心を合わせましょう。

 

1月20日・礼拝メモ

エペソ人への手紙2:11~22節

「主にある聖なる宮」

「実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち2つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し(エペソ2:14)

<はじめに>大寒であるのに温かい朝を迎えました。関東では抜けるような青空が続く冬です。先週、関東4教区の新年聖会が持たれて感謝でした。私は司会の大役を果たしてほっとしています。多大なお祈りを頂いたことを感謝します。週報にも書かせて頂きましたが、午前と午後と二回にわたり、石川学師から、メッセージが語られました。福音讃美歌246番「心を高くあげよ、主の御声を聞きつつ、ただ主のみを見上げて」の讃美歌に基ずいて新年にふさわしいメッセージが語られました。

午前は、「この世の延長線上にない教会」

申命記7:1~5、Ⅰコリント5:1~8

午後は、「天を見上げて共に荒野を旅する」

申命記7:6、Ⅰコリント5:9~13

l  説教の題名からして「アブラハムの生涯も、イスラエル民となって出エジプトしたイスラエルの民も、この世にあっては旅人・寄留者であって、決して定住民族になって、土着して、腰を下ろさなかった。この世に定住してしまう事によって、貧富の差や、様々な問題、自己中心のわがまを抱え込むことになった。信仰者は本来、故郷は天の御国であることをしっかりとわきまえて、この世の旅路に取り組む必要があることを教えられました。なぜなら私たちの人生は決してこの世の延長上にない。天の故郷に向かっての旅人であることを意識して、信仰生涯を送りましょう。」と勧めを頂きました。

l  第一に、エクレシヤと言う言葉です。言語では「集まり」と言う意味です。ですから呼び出されて集まられたと言う意味です。そこにはどのような性質を持った集まりであるのかを心に留めさせて頂きます。

l  第一に、1112節をご覧ください。教会の集まりの特色の第一は「罪人の集まり」であると言うことです。罪人という言葉はありませんが異邦人(異教徒)という言葉あります。ユダヤ人に対して外国人であると言う意味だけではなく、差別もしくは蔑視された意味がありました。いわゆる割礼を受けた自分たちに対して無割礼な者、さらには「キリストから遠く離れ、イスラエル民からは除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。」エペソの教会はそのような人たちが呼び、集められた所が教会であったのです。その事は忘れないで下さいと強調しているのです。「神もなく望みもなく」と地上生涯を送っていた者でした。つまり神の民、キリストの関係、神の約束からも遠く離れたところに立っていたことです。罪人とは犯罪者であると言うことではなく、神様から離れて背を向けていたと言うことです。新約の教会はこの原点を忘れないでください。私たちはここからのスタートであったのです。

l  第2に、13節をご覧ください。今日お読みした聖句の中で中心の聖句は「しかし・・・」大切な事です。教会にはどれだけ素晴らしい救いである事でしょう。新約の教会はキリストの教会であるのです。キリストなしではありえなかったと言うのが私たちの共通の理解なのです。キリストの血によってとは、キリストの十字架の上で流された血潮によって、私たちは近いものになりました。そして神様の民と呼ばれるものとなったのだと言うのです。キリストが私たちの平和をもたらして下さったとあります。ユダヤ人と異邦人の敵意、更には神と人との間の断絶も和解をして下ったことです。つまり2重の和解です。

l  異邦の民も、伝統豊かな選民ユダヤ人も、私たちはキリストの血潮である尊い代価が支払われている事です。永遠のいのちを与えてくださる神との和解をもたらすキリストの平和(和解)、選民ユダヤと異邦の民との共同体としての和解に導く。これは今の教会にも大切な和解です。古い信者の中から産みだされるものの中に、新しい世代の中にもキリストの御霊が働く時、互いにその体質も主の栄光のために組み合わされて行くのです。この御業がなされるためにり祈らなければなりません。

l  もともとは罪人としてバラバラであったのが、イエス様によってつなぎ合わされたことによって、神のお住まい、宮となるのです。お互いに未完です。しかし望みがあるのです。組み合わされて行くことで、お互いが成長して育って行くのです。イエス様は十字架は堅い城壁を壊して、血を持って私たちを贖って下さり、選民ユダヤ人も、何の背景もない異邦人も、聖霊の宮として、組み合わされて成長させて下さるのです。神に栄光を帰し感謝しましょう。

 

1月13日・礼拝メモ

エペソ人への手紙2:1~10節

「恵みゆえに、信仰によって受ける救い」

「この恵みのゆえに、あなた方は信仰によって救われたのです。それはあなた方から出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:8~9)

<はじめに>

l  寒い日が続いています。ご自愛ください。正月が過ぎ、3連休に入りました。私にとっては、新年聖会の司会の御用と重なって、身に余る光栄ですが大変なプレッシャーですお祈り下さい。この度、お招きする先生は日本ナザレン教団の理事、栃木県の小山台教会牧師、伝道者パウロの研究で、秋の聖化大会では、その思い巡らしの深さに驚き、一同で感謝し、聖書の奥の深さを教えられたことです。

l  パウロの書いた書簡の中で、クリスチャンが手にすることのできる救いについて語っている有名なくだりがあります。「義人はいない。一人もいない。・・・すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリストイエスの贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」ローマ書3章、更に、今日開きましたエペソ書2書の最初の部分も、同じ真理を別の角度から語っています。

l  大きなコントラストが描かれています。「あなた方は自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、・・・しかしあわれみ豊かな神は、罪過の中に死んでいたこの私をキリストともに生かし」自分の背きと罪の中で死んでいたものであった。生きた魚ではありません。死んで浮かんで川の流れに流されて行く魚を見たことがあります。私たちも、丁度生きている屍のような空しい人生を送っていないでしょうか。この世の流れに従って生活していた事です。これは福音を必要としている第一の理由です。

l  <自分の救いの証>

有楽町で逢いましょうと言う歌がはやっていた当時。私は25歳でした。空しい鉛色の空を眺めていた時に、イエス様と出会うことができた。5月の連休、2日でした。大きなビル街は静かな休日でした。普段でしたら新国際ビルと言えば沢山の人が出入りしていたことです。小さな通用口から、誘いを受けて9階まで案内を頂ました。日曜日の午後、こんなに沢山の人が集まって集会をしていることに驚きました。語られていたメッセージはルカ伝15章のイエス様の有名な譬の話し「放蕩息子」でした。親元を離れて都会に飛び出してさまよっている自分に対して、ぴったりなおことばでした。父親とは目に見えない神様であることが解って、放蕩息子のように御父に帰ろうと決意して立ち上がったのが、自分の人生における第2のスタートでした。それ以来、47年間になります。イエス様は、浮いた魚が流されているような自分の空しい人生に、希望を与えて下さったことを覚えています。(初代総理の蔦田二雄師から3か月間メッセージを聞くことが出来ました、偉大な器だとはつゆ知らず)お言葉のごとく「あなた方は自分の背きの罪の中に死んだ者であった」当時の私はそうでした。

l  空中の権威を持つ支配者(悪の霊、サタンの支配)従って歩んでいた。これは気が付かないかもしれません。人間の心に忍び込むサタンは、少し物事がうまく行くと有頂天に舞い上がらせ、意気消沈しているときは、更に追い打ちを持って攻撃し、失望と落胆、自暴自棄にさえ追いやるのです。不従順の子らの中に働ら来ている霊ですから、極端な話し、自暴自棄に暴走して、とんでもない犯罪に巻き込んでしまう事さえあるのです。サタンの働きは、妬み憎しみ恨み、敵対争い強奪、死と滅びと破滅です。しかし神様が注いで下さる御霊は愛喜平安、寛容親切善意、誠実柔和自制です。ですからサタンの攻撃をかわして、聖霊に満たされる必要があるのです。

l  「しかし、憐み深い神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに。背きの中に死んでいた私たちを、キリストと共に生かしてくださいました。あなた方が救われたのは恵みによるのです。」神はまた、キリストイエスにあって、私たちをともによみがえらせ、共に天上に座らせて下さいます。自分自身から出たことではない。信仰によるものである。ですから誇る理由は全くない。神様が差し出して下さった、神の愛を素直に受け取ることで、この素晴らし救いを頂く事が出来るのです。教会とは罪赦された罪人が集まっているところです。様々な課題がありますがお互いに、その素材を確かめることによって、へりくだって仕え合うことができるのではないでしょうか。

 

 

1月6日・礼拝メモ

エペソ人への手紙1:15~23節

「心のめがはっきりと見えて」

「また、あなた方の目がはっきりみえるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど光栄にとんだものか、・・・」

(エペソ1:18)

<はじめに>

新しい年に踏み入り今日は6日になります。年頭「まず第一に、神の国とその義とを求める・・・そうしたならば、それに加えて、この世における必要に答えて下さる。この、ストレートな生きた信仰に、この年は実践させて頂きましょう。今日は月末には教会総会を持ちますので、教会書簡と言われているこのエペソ書の御言葉に目を留めてみたいと思っています。

l  今日のお言葉は途中からです。「こういうわけですから」と神の啓示によって与えられた聖書の真理を語った上で、パウロはその事が実現するための感謝のいのりに導かれているわけです。おそらく要点は、救い主キリストによる無尽蔵の富を言葉で表した箇所です。

l  第一に、御父は天の倉を備えておられることです。それは神の子供とされた特権によって分け与えられるものだと言うのです。親は慈しむわが子に、本当に必要なものを惜しみなく与えて下さることでしょう。その動機は確かでも地上の肉の父は限界があります。創世記に登場するヨセフは7年の飢饉の年を迎える前に、7年の豊作を倉に蓄える知恵を頂きましたが、もともと天の御倉はすべての生き物の必要を知っていて下さる御方が、お金の額では測れない霊的祝福の富を用意して下さっていると言うのです。

l  第二に、御子イエスキリストの十字架において流された、いのちの代価である血潮は、旧約の時代から流された動物の血潮の果たせなかった、神の御位から地上に現われて、私たちが御子を信じて受け入れるだけで、罪の代償が肩代わりされるという、尊い犠牲の上に成り立った救いの御業です。キリストの誕生か十字架までの御子の歩みは、罪に悩む人類のために取られた非情事態の神の愛の啓示であったことです。

l  第三に、御霊は証印を押して下さる。証印とは手付金、料理に味見。天に備えられている富の一部、その前味わいの部分を味見しただけだと言うのですから驚きです。

ところで、今日食べるにも事欠く生活の中で、心配して困っているものに、なんの助けにならない、そんな冗談のめいたおとぎ話をするのですか。と言われそうですが、天の御父の供給者としての偉大さは、まず静まって確かめてから、十分に納得が行けるほど、確かなものであることを自分なりに体験して行けたら、御父を本当に喜ばせることになるかも知れません。確かにそうです。それは目が霊の価値の目が開かれていない証拠でもあるのです。

l  年末のBTCリトリートで目に不住な方で参加された方が二人いました。健常者より、心の目が開いて、救いに与り、その生涯に働くキリストの恵みがどれほど大きいかを証してくださいました。

l  天の宝はお金では買うことの出来ない途方もない宝です。平和はその一つです。「平和があなた方にあるよう」この言葉は、復活のイエス様が、人を恐れて戸を閉じていた弟子たちの真ん中に現われて語られた言葉でもあります。その前に最後の晩餐の時も「私はあなたに平和を残します。私はあなた方のために平安を残します」弟子たちには形見として残された。イエス様の心の中にある平安を私たちも頂けるのです。また創世記の義人ノアが洪水から救い出されたように、この世界に締めくくりに、聖なる神の審判に、生き残れる救いの中に数えられている事です。預言者イザヤの見た御国の幻は、「あなたの目は麗しい王を見、遠くまで広がる国を眺める」(イザヤ33:17)その霊の目の視力は信仰者の宝物です。

l  この年神様が備えて下さった天の宝に目を向かて、道端の盲人のバルテマイように、「主よ、目が見えるようにしてください。」そして教会はキリストの体であって、目に見えないがキリストが実際に業をます所であるように、ご臨在の主を頂いて、主の体なる教会の働きに加わらせていただきましょう。

 

1月1日・礼拝メモ

マタイの福音書6:25~34節

「まず、御国を求めなさい」

まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。(マタイ6:33)

<はじめに>「堅く閉ざした心を開いたイエスの一言」

l  BTCリトリートでは、ヨハネの福音書20章の後半部分からメッセージが語られました。主は十字架に息を引き取られてから、三日目の早朝に墓を空にして、復活の栄光の体によみがえりました。その日の夕刻弟子たちに、更に、一週間も同じようにご顕現をなされました。彼らが堅く戸を閉じていたのは、十字架に付けたイエスを捕えたユダヤ人指導者とローマの兵士たちであったことは事実ですが、本当にそれだけであったでしょうか、実は主イエス・キリストの十字架を前にして、クモの子を散らすように弟子たちは散ってしまった。主イエス様にとっては、その時、一番御そばについていてほしい事でしたが、悲しみと苦悩の中で悶えていた自分たちの恩師を、置き去りにして逃げてしまった。弟子たちは、主イエス様がよみがえったからと言って、すぐに喜んで向い入れるようなことは出来なかった、イエス様を裏切ってしまって、もう会わせる顔がなかったので、よみがえったイエス様を迎えることすら出来ないで、堅く戸を閉ざしたいたのではないだろうか。早朝よみがえったイエスを女たちから聞きましたが、裏切ったしまったその心の奥には、本当に合わせる顔はなかったので、堅く戸を閉ざしていた。

l  「平安があなた方にあるように」とドアをすり抜けて入って来た主イエス様は、彼らの真ん中に立たれて声をかけられた。どんなにおどろいたこといでようか、どんなことよりより大切メッセージを届けて下さったことでしょうか。一言も責めることなく。この一言が堅く閉ざした弟子たちの心の扉を開いて下さったことでしょう。更に、一見頼りなさそうに見える弟子たちを、大胆な信頼を持って、大きなビジョンを持って宣教に送りだしているのです。「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなた方を遣わします。こういってから、息を吹きかけて言われた『聖霊を受けなさい』」。

l  今日のこのテキストから、テーマは「心配することなく、神第一で取り組む」事です。(心配6回)この中から、心配からの解放の歌声が響いています。主はここで、将来についての計画や賢い配慮を非難しているのではありません。不必要な心配と心が分散してあくせく思い煩うことを取り上げているのです。福音書の中にイエス様をデナーに迎えた、ベタニヤホームの姉マルタと妹マリヤが描かれている場所があります。姉マルタは主イエス様を迎え、もてなしのために心を騒がし落ち着いていられませんでした。ついくちばしって「イエス様に、マリヤを手伝うようにおっしゃって下さい」と。イエス様の答えは「マルタ、マルタ、あなたいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリヤはその良い方を選びました」と。

l  食べる、飲む、着る。テレビや雑誌のコマーシャルは、ほとんどこれらの事に係わっています。世の中の話題の中心は「いのちとからだ」に関することと言っても過言ではない。「いのちの事、体の事で心配する事はやめなさい。」ストップしなさい。ずるずると心配が膨らむような思いに流されないで、豊かな供給者である神に向けるように、大自然の中で働いておられる神の御業を見せて下さいました。それが、空の鳥と野の百合です。一羽のすずめさえ、守りたもう。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。以前来日して招かれる教会で讃美歌「一羽の雀」を独唱し続けたジョンソン宣教師を思い出します。イエスの言葉は「心配しないで大丈夫」と優しく諭して、永遠の供給者なる神様に、目を付けるようにして下さいます。

l  神の国と神の義とを求めよ。

心配からの解消、安息の生涯の秘訣は、私たちが何を第一に求めるかにかかっています。まず神の国と神の義を求めなさい。天の父は私たちの必要をご存じであられることを知っておられます。目の付け所を、何よりもまず、第一に、何をさておいても最優先。神の国とは神の主権、神の支配です。此の事を意識して、すべての供給者なる神に委ねる基本姿勢です。主の祈りで「日ごとの糧」を今日もお与えくださいとの祈りの姿勢です。神の国は遠いどこかではありません、主に身を捧げ、主に膝着く姿勢の中にあります。また神の義は、その結果から生まれる結実、受け取った恵みの数々と、知らずに結ぶ品性・人格・神を恐れる者の醸し出す何とも言えない尊厳と平安です。この年はこの土台に立って前進しましょう。