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インマヌエル湘南中央キリスト教会は、神奈川県は茅ヶ崎市、ライフタウンの中にある教会です。

TEL.0467-54-7740

〒253-0006 神奈川県茅ヶ崎市堤89-5

メッセージを読んで頂きありがとうございます。



3月17日・礼拝メモ

マタイの福音書21:1~11節

「ナザレから出た予言者イエス」

「こうしてしてイエスがエルサレムに入られると、都中が大騒ぎになり、「この人は誰なのか」と言った。群衆は「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言っていた。(マタイ21:10~11)

<はじめに>梅ヶ丘の梅は散り、神学院の桃の花が満開になりました。春たけなわというところでしょうか。寒さの季節から春霞がかかり、「杉林の中で暮らしても花粉症には何の心配も無い」と。高をくくっていたところ、そうではないのだと語ってくださっているようです。とうとう花粉症のような症状が出てきましたので、少しは花粉症で苦しんでいる方の気持ちも同情できるようになりました。今は教会の暦ではレントです。クリスマスを迎えるアドベントが一ヶ月間ありますが、レントは受難週・イースターを迎えるための40日間です。

l  今年の受難週は414日(聖日)から始まって、20日(聖日)復活祭イースターとなります。今日の聖書の記事はパームサンディーと呼ばれる棕櫚の聖日の出来事です。イエス様がロバの子に乗ってエルサレムの都に迎えられたことです。教会こども賛美歌に「私たちはロバの子です・・・」があります。主がお入り用なのです。柔和のロバの子です。ソロモン王の時代以降、乗り物は馬が主役で、ロバは夫人や子供達の乗り物でした。また荷物の運搬用に使われたのです。

l  柔和さというものは、とても優れた宝物です。イエス様は山上に説教の中でおっしゃいました。「柔和な者は幸いです。その人は地を受け継ぐからです。(マタイ5:5)」荒々しいご主人を相手に、柔和な優しい奥さんがいたとします。短時間だと主人負かされてしまいますが、長い時間をかけて戦うと、柔和な奥さんが勝つのです。最後には、家庭を治め、御主人悪戦苦闘で蓄えた富を譲り受け、天の御国の切符も手に入れ、神の家を継ぐのです。強い相手に対して、何も太刀打ちできないような弱さを嘆かないで主を見上げましょう。かえって豊かな富を手にするのです。まさにイエス様はロバの子に乗って、「この小ロバ私が乗って大丈夫かしら」とイエス様は優しい心遣いをしながら「主がお入り用なのです」とおっしゃるのです。天の御国では弱さ柔和さは、純金のような輝きを放つに違いない。ゼカリヤ書9:9~10節「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなた方の王があなた方のところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ロバに乗って。雌ロバの子である、ロバに乗って。わたしは戦車をエフラエムから、軍馬をエルサレムから絶えさせる。戦いの弓も絶たれる。」パームサンディーは真の意味での凱旋的入城でした。

l  エルサレムの都の人々はどのようにイエス様を迎えたのでしょうか。彼の弟子たちは自分の上着をロバの上に掛けました。そしてその上にイエス様が乗ったのです。

旅先の巡礼者達は自分達の上着を、木の枝を道に敷きました。マタイの福音書では「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。(マタイ21:9)」マタイの福音書イエス様が王であることを強調しています。そして群衆は「この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ」と言った。

l  「ガリラヤのナザレ出身の預言者」との言葉は、イエスを現した言葉の一部分的に過ぎない事です。キリストの弟子であったナタナエルは「ナザレからなんの良い者がでるだろうか」と見下した意味も含めて言いました。またペテロは「あなたは生ける神の子キリストです。」と模範解答をしましたけれども、それらはイエス様の全体像の一部分にしかすぎません。私たちが天の御国に行き着いたら、驚くような麗しいお人柄に驚かされることでしょう。

l  「私たちが知るのは一部分です、預言するのも一部分であり、完全なものが現れたら、部分的なものは廃れるのです。私は、幼子であった時には、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことをやめました。今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔をあわせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知るようになるのです。こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。これら3つです。その中で一番優れているものは愛です。」(Ⅰコリント13:9~13)私たちが天の御国でイエス様とお会いしたら、」私たちがこの世で、悲しんだり、嘆いたり、悔んだり、苦しんだ罪と戦いで悪戦苦闘した出来事が、感激と感謝と光栄に変わるのです。主におすがりしたことの素晴らしさ、罪の生涯に歯止めをかけて頂いた十字架を深く思うことで、胸が張り裂けそうな思いになるかもしれません。

3月10日・礼拝メモ

マタイの福音書14:22~33節

主よ。助けて下さい

イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたのです叫び出し、「主よ。助けて下さい」と言った。(マタイ15:29~30)

<はじめに>今日は歓迎礼拝です。牧師も歓迎されて、講壇に迎えられまして感謝です。本当に寸足らずのものですが今年もよろしくお願いいたします。教会には救いという宝物があります。宝の価値を知らない方もいるかもしれません。人は素晴らしい宝石以上の宝物があるとしたら、穏やかではありません。我先に奪い取るようなことが起こるかもしれません。今日はその宝物を皆様に見て頂く幸いな歓迎礼拝です。

l  私たちの人生は、不安や恐れや心配に囲まれています。さみしさや、悲しみや、憂いに囲まれているかもしれません。どうしましょう。どうしましょうといったってどうすることもできない。もう人助けはごめんだ、いちいちかまっていたら、日が暮れてしまう。早く目的地につきたい。目的地はどこですか。天の御国です。お酒よりもっとうまいものがある。そう言って話してくれた教会の渡辺倉蔵さんがいました。無害でこころを満たしてくれる食べ物、飲み物を出すような教会であり続けたい。

l  今日お読み頂きました聖書の中に、そのようなヒントが隠されています。探って参りましょう。湘南の海は穏やかで美しい、冬でもサーフィンを楽しんでいる人がいます。その海ですが、地震がやってきて津波が押し寄せたら、恐怖の海に変わる。東日本大震災から8年経っていますが、未だに家族が見つからない人、復興がはかどらす、荒れ果てたふるさとをどうすることもできない人たちも沢山います。聖書の最後の書ヨハネ黙示録には、海は恐ろしい不気味なものとして、描かれています。「また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地はすぎさり、もはや海もない。」さらにお言葉は・・・「神は彼らの目から、涙をことごとくぬぐい取って下さる。もはや死もなく、悲しみもなく、叫び声も、苦しみもない。以前のものは過ぎ去ったからである。」昔の人は海は魔物だと思っていたらしい。

l  <波の上を歩く奇跡>

ある人は考えました。どうしたら、波の上を歩けるか。片方の足が沈まないうちに、もう片方の足を出して、体重をかける。その素早い動作ができれば沈まないで歩けるはずだ。理屈を言えばそうかもしれない。でも足を出す前に沈み始める。重力が働いているからです。人工衛星の船内では、波の上を悠々と歩ける。イエス様もペテロもそのときは重力がOffに切り替わって、重力が働かないでいたかもしれません。確かにイエス様は人にできないことを奇跡としてたくさん聖書の中で見せてくださいました。イエス様は私の心のざわめき、不安恐れを沈めくださいます。たとえおぼれかかっていたとしても、イエス様はペテロに手をさしのべて下さったように、あなたの手を握って、不安や恐れや悲しみや苦しみの中から救ってくださる救い主です。イエス様はこの前後にお祈りをなさいました。この世に使わしてくださった御父と会話をするためにです。私達もお祈りします。目には見えませんがこころの叫びや願い事を聞き届けてくださるお方に、お祈りし、またお話し、会話を楽しみます。イエス様は神様であられるのでお祈りは必要ないお方ではありますが、あえて人の子として祈られた。

l  <イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで下さった>

ペテロは勇気を出して舟から一歩踏み出し、水の上を歩き出しました。しかしイエス様から目を離して、風と波を見たのは間違いでした。怖くなって、沈みかけたのです。ペテロが叫んだのはそのときでした。「主よ。助けてください」まさにその瞬間でした。主は強い御手をさしのばし、ぎりぎりでおぼれるところから救い出されました。何世紀にもわたり、意気消沈の海に沈みそうになっている数多くの人たちは、主に叫び声を上げました。「主よ。助けて下さい」主はそのような人たちを苦しみから救い出された。キリストはあわれみを持って強い御手を差しのばし、そのような人たちを救い出されたのです。

3月3日・礼拝メモ

使徒の働き20:17~38

「神とその恵みのみことばに委ねて」

「今私は、あなた方を神とその恵みのみことばに委ねます。み言葉はあなたがたを成長させ、聖なる者とされたすべての人と共に、あなた方に御国を受け継がせることができるのです。」(使徒20:32)

<はじめに>一年間は早いものです。今年も年会を迎えました。年会から年会までと言うのが私たちの教団の姿勢です。神様からの任命は基本的には一年間です。一昨日は神学院の卒業式で2名の方を伝道者として送りだすことが出来ました。本当に焼け石に水のような、とても働き人の少ない時代で、大変な中にありますが、それでも主は憐れんでくださって、神学院の使命が果たされることは憐みです。

l  君主欄の花が二輪だけ咲きました。当初の計画では卒業式に間に合うように、営繕の部屋で暖かくして少しでも早く咲かせようと取り組んだのですが、間に合いませんでした。でも二名の卒業生に対して、3月1日には二輪だけ咲いたのです。

l  ところで、今日お読みした場所は、パウロの第3回伝道旅行の復路であります。小アジアのエペソの教会に立ち寄りたかったのですが、時を急いでいたので、船が立ち寄ったミレトスに、エペソから教会のリーダーたちを呼び集めて、メッセージを送ったのです。アンテオキヤから出発した彼らは異邦人教会からの豊かな伝道資金を集め、迫害によって散らされたエルサレムの教会に届けると言う使命もありました。そして、ミレトスに集まった長老(教会の指導者)にメッセージを語り伝えたのです。今日はこの箇所から、3つの事についてお話しをします。

l  第一に牧者の模範としてのパウロ

エペソに足を止めた3年間はパウロにとって異例であった。エペソには人間が作った大きな偶像アルテミスの神殿が据えられた場所です。私の故郷長野は、善光寺があります。長野駅から本堂まで参道が続きます。その参道にはたくさんのお店が並び、「善光寺なしにはやっていけない」と商売の同業者はみな口をそろえて、商売繁盛のために善光寺に寄付して、長野の商店は営まれています。そのような参道の脇に、なんと「復活の長野キリスト教会」と言う看板を掲げた小さな教会があった。雪深い飯山市から、電車で長野駅に出て、確か自分の担任の先生が出入りしている教会かもしれない。そのような思いで立ち寄った事がありました。それは私にとって初めて教会に踏み入った時です。その教会でお昼を御馳走して歓迎して下さった事がとても感動的でした。そして今こうして救われて牧師をしているのですから感謝です。伝道者パウロも、数々の試練の中で、謙遜の限りを尽くして、涙とともに主に仕えてきました。人に仕えるのでしたら、気が向かなくなったら投げ出しても構わないかもしれませんが、主に仕えるのですから忍耐強く使命を果たさせて頂くのです。「神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰」を力強く勧めて、教会の礎を築いて行ったことでしょう。誰かが注ぎだされなければ伝わらないキリストの愛があるのです。

l  第二には長老たちへの勧告です。

「あなた方は自分自身と群れの全体に気を配りなさい。神がご自分の血を持って買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなた方を群れの監督にお立てになったのです。」牧師はもちろんの事、教会に仕えてきた方々も、このような責任を委ねられています。自分の身の程を知って、正しく自分を見る目がないことがあります。何者かの如く思い上がったりしないことが大切です。また、自分の事だけではなく、群れ全体に気を配る事が出来る心の広い器が必要です。教会はキリストを信じて、心に救いの喜びを持って集まる人たちの所です。そうでなければ今日集えた人でも、サタンの攻撃や、世の誘惑によって、次の集会には誰も来られなくなるようなことだってありうるのです。サタンは絶えず熱心なクリスチャンを狙ってきます。荒々しい狼が入ってきたら警戒しますが、サタンは小羊のような、優しい誘いのことばで、キリストの教会を活動を無にしてしますのですから気を付けなくてはいけません。

l  第3にパウロの召命への応答です

パウロは自分に与えられた使命を「天からの啓示」としてを受けとりました。そしてその厳かな召命に答えて一生を献げました。彼とていつまでも生きて伝道できたわけでもありませんで、もう教会を神の御手に委ねて、区切りを付けなければなりませんでした。「今私は、あなた方を神とその恵みのみことばに委ねます。み言葉はあなたがたを成長させ、聖なる者とされたすべての人と共に、あなた方に御国を受け継がせることができるのです。」最終的には神のみ言葉に委ねるわけですが、本当にお言葉に生き続けたら聖句は力を発揮します。そのようにお言葉を握って、立ち上がりましょう。

 

2月24日・礼拝メモ

エペソ人への手紙5:1~20節

「御霊に満たされなさい」

「機会を十分に生かしなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころが何であるかをさとりなさい。…ぶどう酒によってはいけません。…むしろ、御霊に満たされなさい。」(エペソ5:16、17)

<はじめに>

「神に愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい」子どもは父親に似ると言われます。良きにつけ、悪しきにつけそうでありますが、良い所を似てくれれば申し分ありませんが、悪い所を似るのですから困ったことです。

l  神の子である私たちは御父なる神に倣うと言う途方もない高い標準を掲げます。いかがでしょうか。そのためにはまず、古い習慣を脱ぎ捨てましょう。古い人とはイエス様に出会う前、新生以前の考え方や生き様です。世の人は言います「少しずつ改装して行けばそれだけでも満足すべき成長だと。」しかし、人の心を知り尽くした。使徒パウロは命じます。「思い切って捨て去れ」それは心の霊によって新しくされることです。「この世と調子を合わせてはいけません。いやむしろ、神の御心が何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ12:2)」そして新しい人を着るのです。

l  御父に倣うことは御子イエス様に倣う事でもあります「あなたの愛は、ぶどう酒に勝って麗しく、あなたの香油は香り芳しく、あなたの名は、注がれた香油のよう。そのために、乙女たちはあなたを愛しています。」と雅歌書には記されています。

l  イエス様が十字架に付けられる前、ベタニヤホームで心身をくつろわせ、厳しい十字架に向かわれました。その時マリヤは非常に高価なナルドの香油の壺を割って、イエス様の葬りのために備えました。イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。キリストの品徳・品性・言葉ほど、人類が体験できるかぐわしい香りはありません。このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。(コロサイ2・3)。このキリストのうちにこそ、神の満ち満ちた御性質が形をとって宿っています。(コロサイ2・9)

l  先週は「聖霊を悲しませてはいけません。」と語らせて頂きました。聖霊は優しい控えめなお方で、御父のように強く命令をもって諭すことより、涙を浮かべ、悲しみの傷みと苦しみの中で私たちを矯正されます。御霊が悲しませていると感じたその時、心の転換をしましょう。

l  今日は聖霊に満たされる事を思い巡らします。聖霊に満たされると言うことは、聖霊のバプテスマを受けることです。この地上から、復活し、超スーパー的な復活体を持って40日間、弟子たちに現われて下さいましたが、とうとう天の御父の元に帰る時が来ました。イエス様は御言葉を弟子たちに残されました。「命じられた」権威と力を込めた命令です。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなた方は間もなく聖霊のバプテスマを授けられるからです。使徒1:4~5」それから祈り続けて、10日目、イエス様が復活して50日目に、ペンテコステの聖霊のバプテスマが起こりました。その時のことは聖書の記す通りです。「五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。すると天から突然、激しい風が吹いてきたような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響きわたった。また炎のような舌が分れて現われ、一人一人の上に留まった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろな言葉で話し始めた。」その後もしばしば弟子たちは、この時に体験した喜びの油を注いで頂き、イエス様の福音を伝える弟子に変わって行きました。

l  「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って揶揄されていますが、お酒ではありません、聖霊のバプテスマを受けて、圧当的な罪の赦し、神の愛を無限に注いで頂き、心の解放による自由なたましいに生まれ変わりました。聖霊のバプテスマは無名な弟子たち、僕やはしためにも注がれたことを覚えましょう。貴方にも私にも注がれるはずです。聖霊に満たされた恩師<蔦田真実牧師>の思い出があります。聖霊様が御父の手から、御子の手に渡され、ついに私たち一人一人の心に賜物として届けたれたことを実にわかりやすく解き明かされた。聖霊はプレゼントのように手渡されることを考えて、まるで人格である聖霊様の心を無視して、いとも簡単に手渡されるその姿の中にこそ、御霊の謙遜を感じませんか。それはまた、明確な徴として、私たちの心に届けられたことです。

2月10日・礼拝メモ

ルカの福音書8:40~42、49~56節

「死んだ娘をよみがえらせる」

人々はみな、少女のために泣き悲しんでいた。しかし、イエスは言われた。「泣かなくてもよい。死んだのではなく、眠っているのです。」(ルカ8:52)

<はじめに>

l  青森教会の開拓のころ、家内を含めて56人の方が礼拝に集まっていました。ある日突然、韓国から日本に住む同国人にハングルを教えるために遣わされた方が教会に来ました。礼拝を終えてから教会に来られたいきさつを話された。小学4年の娘がいます。書道で賞をとるほどの腕前で、ご両親の期待をはるかに超えた、優秀な成績で日本の学校に通っていた。その娘が、突然白血病となり、弘前の大学病院に入院しているので祈ってほしいと言う事でした。

l  それからしばらく私たちもその娘さんを見舞いました。家内が紙芝居を通してお話をしましたら、素直にイエス様を信じて救われました。開拓伝道の中で、魂が救われる事はこの上もない喜びでした。しかし、その年の秋に、娘さんは天に召されて行ったのです。会堂も無い借家教会でしたが、仙台あたりから韓国人の方が沢山、葬儀に来ると言うので、近くの教会の会堂を借りて葬儀を行いました。十和田教会の先生が、前夜式で語られた御言葉が、このヤイロ娘の記事でした。

l  ヤイロは、重い病気にある12歳の一人娘を何とか助けてほしいとしきりに願った。

病気が重い中で、一刻も早く家に来てほしい。しかし途中で12年間、病に苦しむ血漏の女の人がイエスの衣にさわって癒された。思わぬ道草を食ってしまった。ヤイロに伝言が届き、娘が死んだと言う通知でした。ヤイロはもはやイエスを煩わせることもないと思ったかもしれない。しかしイエスは「ただ信じなさい。むすめは救われます。」と言いヤイロの家に向かった。人々はもう手遅れと思っていたが、イエスは家の中に入って行ったが、そこで泣き悲しみながら葬式の準備に取りかかっている人たちに、家から出るように命じられた。特定の人たちだけ家に入ることを許した。イエスは、娘のそばに近づき、「子どもよ。起きなさい」と言われた。すると、娘は直ぐに立ち上がった。両親も、イエスを嘲笑っていた人たちも、ただ驚くばかりであった。

l  第一に「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます。」

この父親ヤイロが伝言を受けた時の心境を想像してみましょう。やっぱり間合わなかったか、残念だが仕方ない。もうこれ以上は頼み込んでも娘は戻ってこない。先生をこれ以上家に招いて煩わせることもないだろう。そんな重圧がかかった中で、心が動揺しかけた時でした。イエス様の方から、不思議な力強い言葉を頂きました。彼はイエス様のことばを信じたのです。ですからヤイロにとっても大切な語りかけであったに違いない。これは今の時代の私たちにも通じる信仰の世界のルールです。疑わないでイエス様のことばを信じて、前に進むときに、主の憐みの奇跡がなされる。私たちは神を離れて魂が死しんでいる状態である事を聖書は語っています。イエス様は息を吹きこんで永遠のいのちに生かしてくださる心の救いに通じる例証でもある。ところであなたの魂は生きていますか。

l  第二に「泣かなくてもよい。死んだのではなく、眠っているのです。」

イエス様は魂を呼びさまされた。この時は蘇生と言う奇跡を持って臨まれた。同じような奇跡の出来事がヨハネの福音書にも書かれています。死後四日過ぎて、墓に葬られたラザロを、墓の中から呼び戻された奇跡が書かれています。これらの奇跡は、最後の奇跡中の奇跡、イエスご自身が罪の身代わりとして、十字架で死に葬られて墓に収められ、完全に死なれた者となりましたが、その死の墓を空にして、復活の栄光の体によみがえられた出来事に繋がっているのです。眠っているのですから、目を覚ます時が来るのです。人類を死の苦しみと嘆きから解放し、神と共に永遠を生きる希望が与えられる。これこそ私たちにとって、本当の救い、魂の救いです。主イエス信じて受け入れる人には約束されているのです。

l  第三に「その子に食べ物を与えるように命じなさい。」

イエスはよみがえった娘に食物を与えるよう指示したことです。イエスの奇跡は癒された者が、更に健康で過ごす事が出来るようにしてくださいます。罪深い私たちが、罪赦されて生きている。それ自体、奇跡としか言いようがない。そして私たちが、更に健康な生活ができるように、イエスが身体的必要も満たして下さっているのです。少女がよみがえったことで、人々が有頂天になっているとき、イエス様はこの少女の回復の人生を支援するため、食べ物を与えて元気つけた。先の先まで心を遣うイエス様の導きは今も変わっていません。

2月3日・礼拝メモ

エペソ人への手紙4:1~16節

「御霊の一致を熱心に保つ」

謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛を持って互いに忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。(エペソ4:2~3)

<はじめに>

l  先週は教会総会が開かれ、今年度の計画が立てられました。ご協力に感謝致します。今週から新しい歩みの中に導かれたいと思います。インフルエンザが猛威を振るっていますので気を付けてください。年頭より獄中書簡のエペソ書を開いています。私達の教団創設者の蔦田二雄師も太平洋戦争の終結まで丁度2年間、獄中で過ごされました。インマヌエル神ともにいます。その信仰の原点は獄中を通して神様が語って下さったビジョンによるものです。昭和17626日、ホーリネス系の伝道者が検挙された日でもあります。

l  先週は人知をはるかに超えたキリストの愛が、人類に注がれていることを語らせて頂きました。その永遠の愛は広さも、深さも、高さも、長さもあると伝道者パウロは祈りの中に表現しています。

l  広さ…全人類を包むこと。すべての世代の人類に及ぶ広さです。人類全体を抱擁する愛です。東京オリンピックパラリンピックまで一年、世界中の人が集まるのですから、どのような国の人々をも包み込むほどのキリストの愛を先ず、自分自身が体験して行きたい。自分の殻を破れないもどかしさがありますが、いままで大の苦手であった人付き合いも、勇気を出して、勇気を持って挑戦できるようになりたい。

l  長さ…永遠から永遠へ、人の誕生から死に至るまで変わらない愛。1章では「神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。」とあります。私たちの心には、永遠を思う思いを与えられたと聖書は書かれています。それは事実です。生まれる前から覚えられていたことは救われた後にわかったことです。キリストに出会うとその以前も、以後も生かされてくるのです。主は遠くから私に現われた。「永遠の愛を持って、私はあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。(エレミヤ31:3~4)

l  高さ…いかなる敵も届きえない、奪い取ろうとしても奪い取ることは出来ない愛です。その悪のゆえに、天使の長であったサタンでも突き落とされてしまった。そこから発する権威ある高き愛です。天よりも高く登られたかたはイエス様です。それは低い地上にも来られて足をおろされた方でもあります。

l  深さ…いかなる被造物によっても測りえない愛。大自然は第二の聖書と言われ、どんな被造物も証しえない神秘極まりない秘め事を含んだご愛です。それはまた人々のうちで最も卑しい、あるいは道徳的堕落した人々にさえ届く愛です。実際的見地からすると、あらゆる時代、あらゆる状態、あらゆる人類を抱擁する神の愛をまとめて、あらゆる人に教会が伝道する基礎を提供している。この愛をまとめた言葉が「ヨハネの福音書3:16」です。

l  わたしたちは神の招きを受け、喜んで応答したのです。単なるお客さんではありません、雇われ人でもありません。子としての身分を授けられ神の子としての立場へと招かれたのです。「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子とされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)

l  クリスチャンの基本的共通点、7つの一つがあげられています。体は一つ、御霊は一つ、一つの望、主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、神は唯一それが神に召された者の特質なのです。パウロはそれほどまで強烈に私たちが一つである事をここで強調します。これら根本的な7つのことについては一つであり、それらは、私たちすべてにとって共通の宝物なのです。パウロは神につて注意深く語っています。神の御霊は一つ、主キリストは一人、父なる神は唯一と述べています、御霊、御子、御父の三位一体の神について語っています。三位一体の麗しい一致にすでに、私たちのモデルがあるのです。私たちの一致の土台があることで多様性が生かされるとしたら、教会は本当のキリストの体であることでしょう。

 

1月27日・礼拝メモ

エペソ人への手紙3:1~14節

「この宝を異邦人に」

「また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現がどのようなものかを、すべての人に明らかにするためです。(エペソ3:9)

<はじめに>教会総会を前にして、パウロと一緒に、苦難の中に輝く福音の恵みを思い巡らしたい。この手紙は、獄中からエペソの教会に送られました。獄中で囚われの身でありながら、神の働きは鈍く衰えていったでしょうか。いやほとんど変わらない勢いで闇夜を照らす真の光として、この初代教会は導かれて行ったことです。パウロ自身はローマの獄中から、小アジアのエペソ周辺の教会に宛てた手紙が、獄中書簡(エペソ・ピリピ・コロサイ・ピレモン)として書かれて送られました。

l  昨年度は、病の中に囚われの身となられ、厳しい試練の戦いを強いられた方がおられます。天からの癒しと豊かな慰めがありますように祈ります。伝道者パウロも、イエス様に次ぐ苦難の僕として、歴史上福音に貢献できた器です。先週のメッセージは二重の和解がなされたことをお話し致しました。水と油は静かにしておくと分離します。味の決め手となるドレッシングはその両者をまぜ合わせることによって、絶妙な味を引き立てるように用いられます。ユダヤ人は油、それ以外の人種は真水のように考えると、そのままだと分離してしまって、両者の間には深い溝がありました。一般の教会の中にも信仰年限の長い人々と、最近教会に見えられてイエス様を信じて、心が生まれ変わって生き生きとして信仰に励んでいる方もいます。信仰の成長は、必ずしも培われた信仰年限によるものではありません。年若くしても聖書の救いの信仰生活をどんどん吸収して行く人たちもいるのです。

ユダヤ人教徒の背景を持ったクリスチャンと、全然そのような背景を持たない異邦人クリスチャンがエペソの教会の中に存在していましたが、両者ともに真の意味では神から離れ、自分勝手な道を進んでいましたが、豊かに恵みを注いで下さる神様と和解する必要を教えられ、神と人(自分自身)が真に和解すること事を持って、実に神は二重の和解を実現して下さったと言う事が、このことばの背後にあるメッセージです。

l  パウロ自身は、ユダヤ人の中でユダヤ人として教育されてきました。その熱心は誕生したばかりのキリスト教徒を、信条のゆえに迫害をするほどでした。しかし福音書の主であるイエス・キリスト、復活されて生きておられるイエス様が、直接彼の迫害途上において、彼に出会ってくださいました。天から現われたイエス様は、この迫害者を、キリストを宣伝える神の聖徒に造り変えてくださったのです。神の奇跡の御業です。

l  彼はキリストにかかわる出来事を、特に救い主イエス様が十字架に賭けられる意味を、旧約聖書と新約聖書がまだ確立されていない初代において選民ユダヤ人が救い主イエスを拒んだゆえに、律法を持たない異邦人が、その救いに導かれて行く、もはやユダヤ人も異邦人も何の差別もない事。福音は全世界の富となって備えられたものであることが事が解って、共同の相続人であるがゆえに大きな希望と勇気が与えられたことです。彼はあえて、異邦人に宣伝えたことによって苦難を受けている。ですからここでは、自分自身が囚人である事で失望し、悲しむ事なく、パウロ自身が囚人である事を、あえて挿入して語っているのです。

l  神は多くの秘密を有しておられます。そして神の御旨によりその真理を、時が来て、一つ一つ明らかに示して下さると言うのです。パウロはその事を、神の奥義として語っています。極めて重大な出来事であるゆえに、パウロ自覚して戦慄しています。私たちも今、ここに立って、特にユダヤ教的な背景を持たない異邦人であり、また同胞のために福音を委ねられている者と信じて感謝します。すなわち「キリストの測り知れない富を異邦人に宣伝える事」がそれです。古い契約の下では、イスラエルの国籍はなく、約束された諸契約に縁はなく、希望もなく、神もなかった異邦人が、新しい契約(新約聖書)の下では、異邦人もイスラエルと共に神の世継ぎであり、同じ家族であることを、パウロが身を持って証したかったことでしょう。私たちも同胞に対して、同じような使命に満たされて進み行きたい。そのためにパウロの祈りに心を合わせましょう。

 

1月20日・礼拝メモ

エペソ人への手紙2:11~22節

「主にある聖なる宮」

「実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち2つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し(エペソ2:14)

<はじめに>大寒であるのに温かい朝を迎えました。関東では抜けるような青空が続く冬です。先週、関東4教区の新年聖会が持たれて感謝でした。私は司会の大役を果たしてほっとしています。多大なお祈りを頂いたことを感謝します。週報にも書かせて頂きましたが、午前と午後と二回にわたり、石川学師から、メッセージが語られました。福音讃美歌246番「心を高くあげよ、主の御声を聞きつつ、ただ主のみを見上げて」の讃美歌に基ずいて新年にふさわしいメッセージが語られました。

午前は、「この世の延長線上にない教会」

申命記7:1~5、Ⅰコリント5:1~8

午後は、「天を見上げて共に荒野を旅する」

申命記7:6、Ⅰコリント5:9~13

l  説教の題名からして「アブラハムの生涯も、イスラエル民となって出エジプトしたイスラエルの民も、この世にあっては旅人・寄留者であって、決して定住民族になって、土着して、腰を下ろさなかった。この世に定住してしまう事によって、貧富の差や、様々な問題、自己中心のわがまを抱え込むことになった。信仰者は本来、故郷は天の御国であることをしっかりとわきまえて、この世の旅路に取り組む必要があることを教えられました。なぜなら私たちの人生は決してこの世の延長上にない。天の故郷に向かっての旅人であることを意識して、信仰生涯を送りましょう。」と勧めを頂きました。

l  第一に、エクレシヤと言う言葉です。言語では「集まり」と言う意味です。ですから呼び出されて集まられたと言う意味です。そこにはどのような性質を持った集まりであるのかを心に留めさせて頂きます。

l  第一に、1112節をご覧ください。教会の集まりの特色の第一は「罪人の集まり」であると言うことです。罪人という言葉はありませんが異邦人(異教徒)という言葉あります。ユダヤ人に対して外国人であると言う意味だけではなく、差別もしくは蔑視された意味がありました。いわゆる割礼を受けた自分たちに対して無割礼な者、さらには「キリストから遠く離れ、イスラエル民からは除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。」エペソの教会はそのような人たちが呼び、集められた所が教会であったのです。その事は忘れないで下さいと強調しているのです。「神もなく望みもなく」と地上生涯を送っていた者でした。つまり神の民、キリストの関係、神の約束からも遠く離れたところに立っていたことです。罪人とは犯罪者であると言うことではなく、神様から離れて背を向けていたと言うことです。新約の教会はこの原点を忘れないでください。私たちはここからのスタートであったのです。

l  第2に、13節をご覧ください。今日お読みした聖句の中で中心の聖句は「しかし・・・」大切な事です。教会にはどれだけ素晴らしい救いである事でしょう。新約の教会はキリストの教会であるのです。キリストなしではありえなかったと言うのが私たちの共通の理解なのです。キリストの血によってとは、キリストの十字架の上で流された血潮によって、私たちは近いものになりました。そして神様の民と呼ばれるものとなったのだと言うのです。キリストが私たちの平和をもたらして下さったとあります。ユダヤ人と異邦人の敵意、更には神と人との間の断絶も和解をして下ったことです。つまり2重の和解です。

l  異邦の民も、伝統豊かな選民ユダヤ人も、私たちはキリストの血潮である尊い代価が支払われている事です。永遠のいのちを与えてくださる神との和解をもたらすキリストの平和(和解)、選民ユダヤと異邦の民との共同体としての和解に導く。これは今の教会にも大切な和解です。古い信者の中から産みだされるものの中に、新しい世代の中にもキリストの御霊が働く時、互いにその体質も主の栄光のために組み合わされて行くのです。この御業がなされるためにり祈らなければなりません。

l  もともとは罪人としてバラバラであったのが、イエス様によってつなぎ合わされたことによって、神のお住まい、宮となるのです。お互いに未完です。しかし望みがあるのです。組み合わされて行くことで、お互いが成長して育って行くのです。イエス様は十字架は堅い城壁を壊して、血を持って私たちを贖って下さり、選民ユダヤ人も、何の背景もない異邦人も、聖霊の宮として、組み合わされて成長させて下さるのです。神に栄光を帰し感謝しましょう。

 

1月13日・礼拝メモ

エペソ人への手紙2:1~10節

「恵みゆえに、信仰によって受ける救い」

「この恵みのゆえに、あなた方は信仰によって救われたのです。それはあなた方から出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:8~9)

<はじめに>

l  寒い日が続いています。ご自愛ください。正月が過ぎ、3連休に入りました。私にとっては、新年聖会の司会の御用と重なって、身に余る光栄ですが大変なプレッシャーですお祈り下さい。この度、お招きする先生は日本ナザレン教団の理事、栃木県の小山台教会牧師、伝道者パウロの研究で、秋の聖化大会では、その思い巡らしの深さに驚き、一同で感謝し、聖書の奥の深さを教えられたことです。

l  パウロの書いた書簡の中で、クリスチャンが手にすることのできる救いについて語っている有名なくだりがあります。「義人はいない。一人もいない。・・・すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリストイエスの贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」ローマ書3章、更に、今日開きましたエペソ書2書の最初の部分も、同じ真理を別の角度から語っています。

l  大きなコントラストが描かれています。「あなた方は自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、・・・しかしあわれみ豊かな神は、罪過の中に死んでいたこの私をキリストともに生かし」自分の背きと罪の中で死んでいたものであった。生きた魚ではありません。死んで浮かんで川の流れに流されて行く魚を見たことがあります。私たちも、丁度生きている屍のような空しい人生を送っていないでしょうか。この世の流れに従って生活していた事です。これは福音を必要としている第一の理由です。

l  <自分の救いの証>

有楽町で逢いましょうと言う歌がはやっていた当時。私は25歳でした。空しい鉛色の空を眺めていた時に、イエス様と出会うことができた。5月の連休、2日でした。大きなビル街は静かな休日でした。普段でしたら新国際ビルと言えば沢山の人が出入りしていたことです。小さな通用口から、誘いを受けて9階まで案内を頂ました。日曜日の午後、こんなに沢山の人が集まって集会をしていることに驚きました。語られていたメッセージはルカ伝15章のイエス様の有名な譬の話し「放蕩息子」でした。親元を離れて都会に飛び出してさまよっている自分に対して、ぴったりなおことばでした。父親とは目に見えない神様であることが解って、放蕩息子のように御父に帰ろうと決意して立ち上がったのが、自分の人生における第2のスタートでした。それ以来、47年間になります。イエス様は、浮いた魚が流されているような自分の空しい人生に、希望を与えて下さったことを覚えています。(初代総理の蔦田二雄師から3か月間メッセージを聞くことが出来ました、偉大な器だとはつゆ知らず)お言葉のごとく「あなた方は自分の背きの罪の中に死んだ者であった」当時の私はそうでした。

l  空中の権威を持つ支配者(悪の霊、サタンの支配)従って歩んでいた。これは気が付かないかもしれません。人間の心に忍び込むサタンは、少し物事がうまく行くと有頂天に舞い上がらせ、意気消沈しているときは、更に追い打ちを持って攻撃し、失望と落胆、自暴自棄にさえ追いやるのです。不従順の子らの中に働ら来ている霊ですから、極端な話し、自暴自棄に暴走して、とんでもない犯罪に巻き込んでしまう事さえあるのです。サタンの働きは、妬み憎しみ恨み、敵対争い強奪、死と滅びと破滅です。しかし神様が注いで下さる御霊は愛喜平安、寛容親切善意、誠実柔和自制です。ですからサタンの攻撃をかわして、聖霊に満たされる必要があるのです。

l  「しかし、憐み深い神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに。背きの中に死んでいた私たちを、キリストと共に生かしてくださいました。あなた方が救われたのは恵みによるのです。」神はまた、キリストイエスにあって、私たちをともによみがえらせ、共に天上に座らせて下さいます。自分自身から出たことではない。信仰によるものである。ですから誇る理由は全くない。神様が差し出して下さった、神の愛を素直に受け取ることで、この素晴らし救いを頂く事が出来るのです。教会とは罪赦された罪人が集まっているところです。様々な課題がありますがお互いに、その素材を確かめることによって、へりくだって仕え合うことができるのではないでしょうか。

 

 

1月6日・礼拝メモ

エペソ人への手紙1:15~23節

「心のめがはっきりと見えて」

「また、あなた方の目がはっきりみえるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど光栄にとんだものか、・・・」

(エペソ1:18)

<はじめに>

新しい年に踏み入り今日は6日になります。年頭「まず第一に、神の国とその義とを求める・・・そうしたならば、それに加えて、この世における必要に答えて下さる。この、ストレートな生きた信仰に、この年は実践させて頂きましょう。今日は月末には教会総会を持ちますので、教会書簡と言われているこのエペソ書の御言葉に目を留めてみたいと思っています。

l  今日のお言葉は途中からです。「こういうわけですから」と神の啓示によって与えられた聖書の真理を語った上で、パウロはその事が実現するための感謝のいのりに導かれているわけです。おそらく要点は、救い主キリストによる無尽蔵の富を言葉で表した箇所です。

l  第一に、御父は天の倉を備えておられることです。それは神の子供とされた特権によって分け与えられるものだと言うのです。親は慈しむわが子に、本当に必要なものを惜しみなく与えて下さることでしょう。その動機は確かでも地上の肉の父は限界があります。創世記に登場するヨセフは7年の飢饉の年を迎える前に、7年の豊作を倉に蓄える知恵を頂きましたが、もともと天の御倉はすべての生き物の必要を知っていて下さる御方が、お金の額では測れない霊的祝福の富を用意して下さっていると言うのです。

l  第二に、御子イエスキリストの十字架において流された、いのちの代価である血潮は、旧約の時代から流された動物の血潮の果たせなかった、神の御位から地上に現われて、私たちが御子を信じて受け入れるだけで、罪の代償が肩代わりされるという、尊い犠牲の上に成り立った救いの御業です。キリストの誕生か十字架までの御子の歩みは、罪に悩む人類のために取られた非情事態の神の愛の啓示であったことです。

l  第三に、御霊は証印を押して下さる。証印とは手付金、料理に味見。天に備えられている富の一部、その前味わいの部分を味見しただけだと言うのですから驚きです。

ところで、今日食べるにも事欠く生活の中で、心配して困っているものに、なんの助けにならない、そんな冗談のめいたおとぎ話をするのですか。と言われそうですが、天の御父の供給者としての偉大さは、まず静まって確かめてから、十分に納得が行けるほど、確かなものであることを自分なりに体験して行けたら、御父を本当に喜ばせることになるかも知れません。確かにそうです。それは目が霊の価値の目が開かれていない証拠でもあるのです。

l  年末のBTCリトリートで目に不住な方で参加された方が二人いました。健常者より、心の目が開いて、救いに与り、その生涯に働くキリストの恵みがどれほど大きいかを証してくださいました。

l  天の宝はお金では買うことの出来ない途方もない宝です。平和はその一つです。「平和があなた方にあるよう」この言葉は、復活のイエス様が、人を恐れて戸を閉じていた弟子たちの真ん中に現われて語られた言葉でもあります。その前に最後の晩餐の時も「私はあなたに平和を残します。私はあなた方のために平安を残します」弟子たちには形見として残された。イエス様の心の中にある平安を私たちも頂けるのです。また創世記の義人ノアが洪水から救い出されたように、この世界に締めくくりに、聖なる神の審判に、生き残れる救いの中に数えられている事です。預言者イザヤの見た御国の幻は、「あなたの目は麗しい王を見、遠くまで広がる国を眺める」(イザヤ33:17)その霊の目の視力は信仰者の宝物です。

l  この年神様が備えて下さった天の宝に目を向かて、道端の盲人のバルテマイように、「主よ、目が見えるようにしてください。」そして教会はキリストの体であって、目に見えないがキリストが実際に業をます所であるように、ご臨在の主を頂いて、主の体なる教会の働きに加わらせていただきましょう。

 

1月1日・礼拝メモ

マタイの福音書6:25~34節

「まず、御国を求めなさい」

まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。(マタイ6:33)

<はじめに>「堅く閉ざした心を開いたイエスの一言」

l  BTCリトリートでは、ヨハネの福音書20章の後半部分からメッセージが語られました。主は十字架に息を引き取られてから、三日目の早朝に墓を空にして、復活の栄光の体によみがえりました。その日の夕刻弟子たちに、更に、一週間も同じようにご顕現をなされました。彼らが堅く戸を閉じていたのは、十字架に付けたイエスを捕えたユダヤ人指導者とローマの兵士たちであったことは事実ですが、本当にそれだけであったでしょうか、実は主イエス・キリストの十字架を前にして、クモの子を散らすように弟子たちは散ってしまった。主イエス様にとっては、その時、一番御そばについていてほしい事でしたが、悲しみと苦悩の中で悶えていた自分たちの恩師を、置き去りにして逃げてしまった。弟子たちは、主イエス様がよみがえったからと言って、すぐに喜んで向い入れるようなことは出来なかった、イエス様を裏切ってしまって、もう会わせる顔がなかったので、よみがえったイエス様を迎えることすら出来ないで、堅く戸を閉ざしたいたのではないだろうか。早朝よみがえったイエスを女たちから聞きましたが、裏切ったしまったその心の奥には、本当に合わせる顔はなかったので、堅く戸を閉ざしていた。

l  「平安があなた方にあるように」とドアをすり抜けて入って来た主イエス様は、彼らの真ん中に立たれて声をかけられた。どんなにおどろいたこといでようか、どんなことよりより大切メッセージを届けて下さったことでしょうか。一言も責めることなく。この一言が堅く閉ざした弟子たちの心の扉を開いて下さったことでしょう。更に、一見頼りなさそうに見える弟子たちを、大胆な信頼を持って、大きなビジョンを持って宣教に送りだしているのです。「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなた方を遣わします。こういってから、息を吹きかけて言われた『聖霊を受けなさい』」。

l  今日のこのテキストから、テーマは「心配することなく、神第一で取り組む」事です。(心配6回)この中から、心配からの解放の歌声が響いています。主はここで、将来についての計画や賢い配慮を非難しているのではありません。不必要な心配と心が分散してあくせく思い煩うことを取り上げているのです。福音書の中にイエス様をデナーに迎えた、ベタニヤホームの姉マルタと妹マリヤが描かれている場所があります。姉マルタは主イエス様を迎え、もてなしのために心を騒がし落ち着いていられませんでした。ついくちばしって「イエス様に、マリヤを手伝うようにおっしゃって下さい」と。イエス様の答えは「マルタ、マルタ、あなたいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリヤはその良い方を選びました」と。

l  食べる、飲む、着る。テレビや雑誌のコマーシャルは、ほとんどこれらの事に係わっています。世の中の話題の中心は「いのちとからだ」に関することと言っても過言ではない。「いのちの事、体の事で心配する事はやめなさい。」ストップしなさい。ずるずると心配が膨らむような思いに流されないで、豊かな供給者である神に向けるように、大自然の中で働いておられる神の御業を見せて下さいました。それが、空の鳥と野の百合です。一羽のすずめさえ、守りたもう。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。以前来日して招かれる教会で讃美歌「一羽の雀」を独唱し続けたジョンソン宣教師を思い出します。イエスの言葉は「心配しないで大丈夫」と優しく諭して、永遠の供給者なる神様に、目を付けるようにして下さいます。

l  神の国と神の義とを求めよ。

心配からの解消、安息の生涯の秘訣は、私たちが何を第一に求めるかにかかっています。まず神の国と神の義を求めなさい。天の父は私たちの必要をご存じであられることを知っておられます。目の付け所を、何よりもまず、第一に、何をさておいても最優先。神の国とは神の主権、神の支配です。此の事を意識して、すべての供給者なる神に委ねる基本姿勢です。主の祈りで「日ごとの糧」を今日もお与えくださいとの祈りの姿勢です。神の国は遠いどこかではありません、主に身を捧げ、主に膝着く姿勢の中にあります。また神の義は、その結果から生まれる結実、受け取った恵みの数々と、知らずに結ぶ品性・人格・神を恐れる者の醸し出す何とも言えない尊厳と平安です。この年はこの土台に立って前進しましょう。

 

12月30日・礼拝メモ

ピリピ人への手紙3:12~21節

「後ろのものを忘れ、前のものに向かって」

兄弟たち、私は、自分がすでにとらえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって、神が上に召して下さると言う、その賞を頂くために、目標を目指して走っているのです。(ピリピ3:13~14)

<はじめに>、一年間の締めくくりの礼拝です。この年を振り返って、どのような一年間であったでしょうか。明るい、いのちにみなぎった快活な一年間であったでしょうか。また、明るいどころか、失敗や挫折ややり直しや、さみしい孤独と辛さがひしひしと身に迫って、生かされていることは感謝ですが暗闇の中をひたすら歩んだ一年間でしたでしょうか。私たちは両局面を考えられますが、どのような中に置かれても、神様はアレンジして下さった一年であることのゆえに、希望と感謝の祈りを持って締めくくらせて頂きましょう。

l  わずか4章のピリピ人への手紙は、クリスチャン生涯の喜びの手紙です。福音がアジやからヨーロッパに伝えられ、マケドニア地方のピリピと言う町でのことです、開拓当時の記録が記されています。ユダヤ人が礼拝する場所、会堂は無かった。川のほとりで幾人か礼拝を守っていました。最初に、紫布の商人ルデヤと言うご婦人とその家族が救われて、バプテスマを受けました。「私が、主を信じる者だとお思いでしたら、私の家に来てお泊り下さい。」と暖かい歓迎のもてなしを受けた後、占いの霊に憑かれた女の人が癒されて、その背後でもうけを失ったご主人たちの反感によって、逮捕されて、鞭で打たれ、牢獄の囚人となってしまいました。それにも拘わらず、真夜中に賛美を歌って、主を褒め称える圧倒的信仰的生きざまを証ししました。しばらくして、天地がひっくり返るような地震が起こり、牢番の看守がその牢のとびらを開いて囚人を逃げ出したと勘違いして、自殺を試みようとしたとき、パウロたちの不思議な気転によって、囚人は逃げ出さずに守られた。その危機的場面、勇気ある言葉をきっかけに、牢屋の看守がイエス様を信じて救いに与りました。そのピリピ教会からパウロのために、しばしば心を満たす贈り物が届きました。パウロは喜びと真実を込めてこの手紙を送っています。

l  内容

Ⅰ 命であるキリスト(1ch)・・・それゆえ患難の中でも喜ぶ

Ⅱ 模範であるキリスト(2ch)・・・それゆえキリストにならう奉仕を喜ぶ

Ⅲ 目標であるキリスト(3ch)・・・それゆえ地のものを捨てることを喜ぶ

Ⅳ 力であるキリスト(4ch)・・・それゆえいかなる環境にあっても喜ぶ

この3章では伝道者パウロは、自分の信仰姿勢を過去・現在・未来に向かって、その要点をうまくまとめているところです。

l  パウロの過去は、神を敬う敬虔な家庭と養育と傑出したユダヤ人教師として、当時、新興宗教のごとく興ったキリスト教に対して、怒りに燃えて激しく教会を迫害した人物でした。キリスト教会にとって最初の殉教者ステパノの石打の刑の執行者として立っています。ところが、主イエスキリストは、パウロを捕えようとダマスコ途上で、彼にご対面下さって、大きな光を照らしで覆し、彼の人生を迫害者から、真のキリストを宣伝える弟子として造り変えて下さったのです。彼の人生に価値観の変革が起こったのです。私たちもキリストを信じる義、すべての過去や失敗や、罪、弱さや未熟さから来るすべて、後ろ髪がひかれるようなことは、キリストが命がけで愛した十字架によって、解放されるのです。させて頂きたい。年末後悔でなく、神の御前に、悔い改めを持って清算でできたら素晴らしい。それができることが福音の力である事を信じたい。年末はそのチャンスの時とさせて頂こうではありませんか。

l  パウロの現在は、キリストに出会って、十字架の死と、復活のいのちを持って君臨するキリストに倣って、どうしたらキリストらしく生きられるかが彼の毎日の追求課題となりました。キリストを捕えてしまったなどとはみじんにも思わず、むしろ主イエスキリストが、私を捕えた(神の赦しと導きの中で大きな愛を受け)中で生活が許されている事の感謝がこの喜びの源泉でもありました。

l  パウロの未来は、神が備えられた信仰者一人一人に、個人の栄誉を掛けた霊的生涯の冠としての賞を頂くために身軽になって走り抜くためでした。この地上の体は仮の宿、本当のたましいの体は、天にて備えて下さる復活の栄光の体です。一年間病み通した年月。しかしこの復活の栄光の体に身を置くことの幸い、また天に備えられ永遠のマンションを約束として信じ、パウロのような輝いた信仰に満たされて一年間を締めくくりたい。

 

12月23日・礼拝メモ

マタイの福音書1:18~25節

「夢の中に現われた御使い」

彼がこのことを思い巡らしていたころ、見よ、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリヤをあなたの妻として迎えなさい。その体に宿っている子は聖霊によるのです。」(マタイ1:20)

<はじめに>、先週のクリスマスコンサートでは、教会の座席が全部埋まってしまうほどの方々がおいで下さいました。今年はフルートとギター伴奏の名コンビで幸いな名曲を演奏していただきました。私は一番前に陣取って生の演奏を楽しみました。最後の余韻が残るまでじっと注意を払って、丁寧にギターの弦を弾いて下さったことに感動しました。クリスマスの時に洗礼を受けられる方が一年間でも一番多い事ですが、私もそうでしたが、今年はそこまで届く方はありませんでした。少しさみしいクリスマスですが、幼児から高齢者に至るまで守られクリスマスを迎えることができたことは感謝であります。若い時のようには体が動いてくれない方も、思わず病と闘わなければならなかった方も、信仰によって豊かな恵みに満たして頂きましょう。

l  へブル書1~2章は御使いに勝れる御子イエス様が書かれています。1章では御父ともに礼拝の対象者であられた御子は、天にて仕える御使いに勝れる御方と記されています。また2章よりほんの短い生涯33年半の肉体をとられたイエス様、生きる悩みのすべてを体験済みであり、人類に罪の結果として迎える死に対しても、サタンの巧妙な恐怖心を粉砕して下さいました。まさに天使に勝れる主イエスさまの姿が描かれています。2章より天使に勝れるイエス様を語らせて頂きました。

l  クリスマスコンサートの時は、母マリヤに語られた天使のことばを届けさせて頂きました。不妊の女と言われたエリザベツが懐妊して6か月目に、まだ結婚する前に、神の御子を懐妊するしらせはまさに奇跡です。マリヤは、神は全能者であり、わが身に起こった出来事を通して、神の御旨を受け入れました。今日は夫のヨセフにも天使が夢の中に現われたことが語られています。夫ヨセフは正しい人で、思い悩み、さらし者にしたくないと思って、ひそかに離縁を考えていたその時でした。

l  神様は夢の中でヨセフに語られました。大工の仕事で生計を立てていたヨセフでしたが、改めて「ダビデの家系」からのメシヤの誕生を知った事です。夫ヨセフはエルサレムの神殿に仕える祭司ではありませんし、平民で職人として身を立てていたことです。貧しい彼の人生でしたがその中で、彼にふさわしいマリヤさんが紹介されて結婚の運びになった。婚約は大切な決断ですが、まだ二人が一緒になって結婚生活に入る前に、相手のマリヤが妊娠している知らせを聞きます。天使が現れて、彼女の胎内に宿っている子は神の御子であると知らされても、普通の人間社会では考えられないことで、受け入れ難いことでした。マリヤはうそをついているわけではあるまいし、絵に描いたような処女として、貞淑な質素な女性でしたから、ヨセフのジレンマは大変なものであったに違いない。処女降誕はメシヤ誕生にかかわる大切な真理です。預言の成就はまさに人類の歴史の中に、目を留めて下さる真理です。ヨセフが眠りから目覚めて、この聖霊による懐妊を素直に受け入れたことです。

l  夫ヨセフが聖書の中に登場するのはイエスが12歳の少年の時迄でした。ナザレからエルサレム神殿への都登りの出来事が最後です。おそらくヨセフはマリヤとの間に家族とし3人ほどこどもが生まれましたが、父親として、早く天に召され事と推測されています。おそらく、長兄として主イエス様は家族を支えるために、父親代わりをしつつ30歳を迎えます。そしていよいよ家族を離れ、弟子を集め福音伝道に進まれたことです。天とのコミュニケーションなしには本当の意味での家族に対する責任は果たせない。マリヤもヨセフも聖霊の御業を素直に受け入れ、その事によって、不信不義の世に有って、全能の神を信じる器であったことでしょう。処女の胎内に宿った御子は、信仰によって、今も私たちの心に「インマヌエル」の神として宿すことができる御方です。

 

12月16日・礼拝メモ

へブル人への手紙2:1~18節

「兄弟と呼ぶことを恥とせず」

多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされました。万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしい事であったのです。(へブル2:10)

<はじめに>一年間も締めくくりは良いもので飾って頂きたい。神様に飾って頂きたい。今日は午後にクリスマスコンサートを控えていますので、午前の礼拝もさることながら、午後の集会にもみなさんで加わりましょう。

l  この年のクリスマスのテーマは、個人的に、勝手に天使(神の使い)に心を向けていろいろと思いを巡らせています。先週は預言者と天使に勝るイエス・キリストを考えました。「御使いはみな、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになる人々に仕えるために遣わされているのではありませんか。(1:14)御子は御父と一体で礼拝を受ける側ですが、御使いは礼拝を捧げる側です。

l  ところで2章では信仰生涯が世の濁流に押し流されないために勧告から書き出されています。御使いたち(モーセが授かった時、御使いもそこで仕えていたようです。使徒の働き7:53)御言葉に効力があり、すべでの違反と不従順が当然の処罰を受けたのです。実際に荒野の40年間の旅路において神に戒めを破って刑罰を受けたことです。最後に遣わされ御子イエス様が語られたことに、心をそむけたら、尊い約束のことば得あるゆえに、当然処罰をまぬがれないから気を付けてください。このへブル書には実際的な勧告としてところどころに入っています。14節までは「厚く慎む」事が書かれています。

l  神の御子、イエス・キリストは真の神であると同時に、真の人である必要があったのです。第一章では全神であられることのゆえに御使いに勝れる御方であるとしたら、第2章はイエス・キリストが全き人となって下さったゆえに天使に勝れる御方であられるのです「人とは何ものなのでしょうか。あなたはこれに心を留められるとは、人の子とはいったい何ものなのでしょうか。(詩篇8:6)」万物の霊長としてお造りになった人、人類全体、個々の一人一人を言い当てているかと思うと、その奥に全人となって、この世に誕生して下さったイエス・キリスト様の事が証された言葉です。わずかに低い者として、御使いよりわずかの間、低くされた御方、すなわち、イエス・キリストは人として33年半の肉体を持って地上に人として生きられたのです。

l  主が人となってこの世においで下さった意味は二つあります。罪を他にして、わたしたちが直面するすべての生きる悩みを体験するため、人を罪に陥れて死の恐怖をもたらすサタンの業を覆して下さったことです。

イエス様は神の御子として人の仲間に入られた時に、病気で病んだことはない、大工の子として、父親の真似をしたり、自然児そのもの、12歳のイエス様は神殿ラビたちを相手に、話ができた。障害を持っていたと言うわけではありませんが、全く自由な霊的な存在であった御子が、肉体的な制限を受けられたことは大変な犠牲であったことです。子はみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。福音書にはしばしば主イエス様は疲れて云々…とサマリヤの井戸で腰を下ろされ、飲み水をもとめられ、ガリラヤ湖の船の上で嵐の中で、水をかぶった只中で眠られたのです。弟子たちが揺すり起こすほどでした。おなかがすくと人は怒りっぽくなる、そのような誘惑も体験した。

l  キリストは苦しみと共に悲しく死ぬことも体験済みです。死にてよみがえられた主でもあります。ベツレヘムで生まれたキリストはカルバリの十字架の上において人々の救いのためのものだったのです。「悪魔をご自分の死を持って滅ぼす」なんという力強い言葉でしょうか。また「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神に御座の右に着座されたのです。(へブル12:2)」

l  更にイエス様は私たちを友として、この世から選び出して下さり、私たちを愛する兄弟分として、イエス様の方から、躊躇することなく兄弟姉妹として認めて下さる。恐れ多くも、そのような間柄であることを覚えましょう。クリスチャンとは考えてみれば不思議な絆で結ばれて生きています。肉の兄弟より親しく、神の御前に兄弟姉妹とし豊かな土壌を持っていることを改めて思い出させて頂きました。

 

 

12月9日・礼拝メモ

へブル人への手紙1:1~14節

「預言者と天使に勝れる御子」

「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみ言葉によって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。」(へブル1:3)

<はじめに>

l  せっかくクリスチャンになったのに、その生涯を返上して、世の中に戻って行く方だいるようです。洗礼を受けてクリスチャンなられてから、一生涯その信仰を貫き通して、人生を全うされる方はどのくらいでしょうか。もったいない、本当に残念なことです。何が問題なのでしょうか。第一に、目に見える物質中心の世界が、目に見えない霊的生涯のより素晴らしく思ってしまう事によって、受けた救いを手放してしまいます。この世の裕福な生活を第一に据えると、いくら素晴らしい天国のメッセージを聞いても、それはあまり意味を持たなくなってしまいます。今は末の世で、そのような時代であることを覚えたいと思います。

l  西洋思想の中心となる聖書において、物質主義は、聖書の説くの教えと対峙するものとして教えられています。クリスチャンやユダヤ教徒の間で、十戒として知られる第1の戒めは、「あなたは、わたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」(出エジプト記203)という戒めです。人が造った偶像を礼拝することを禁止したということ以上のものを意味しています。それは神以外に人生の目的とする。神よりも優先させるものが、あってはならないという意味が当然含まれているわけです。すなわち、“物質主義”をも禁止した律法である。物質を宝とする場合、物質と対比される目に見えないもの・・・精神、心、人情、愛、といったものに対しては、鈍く反応することとなるのです。「あなたがたは、神と富とに、兼ね仕えることはできない・・・・何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで、思い煩い、何を着ようかと、自分のからだのことで、思いわずらうな。命は、食物にまさり、からだは、着物にまさるではないか。」。(マタイ6:24-25)シンプルライフの基本です。今年のクリスマは、贈り物で苦しむことなく、シンプルライフで行きましょう。

l  へブル書を書いたのは誰かわかりません。しかし誰が書いたか特定できなくてもそれはそれでいいのです。まさに天から与えられた書と言うことで頷けるのです。新約と旧約聖書を結ぶ大切な書であります。鍵のことばは勝れると言う言葉で、まさに世俗主義に対座して、そびえ立つ第5の福音書とも言われています。この第一章では、旧約の預言者に勝るイエスキリスト。更に天国で神に仕えている働き人としての天の使い、天使が引き合いに出されて、その天使の勝る、神の御子を紹介している序文です。天地の主なる神は、ファイナルアンサーとして御子を送られた。神様は天地創造の大本ですが、御子もその時点で当然、その御業に加わっていると言う素晴らしさです。66人【旧約聖書の数】の預言者が立てたてられましたが、最終的に御子をこの地上に送ることによって、ある面では完成を果たした。と言うことです。

l  「この年は天使に目を向けて、いや天使に勝る、主イエス・キリスト様に心と思いと情熱を傾けたい。」と思っているわけです。イエス様は天上人でしたが、私たちを救うために地上人としてお生まれ下さったと言うわけです。御使いはこの地上に生まれることはなかった。御使いは死んでよみがえることを私たちの目のまえで見せてはくれませんでしたがイエス様は確かに生まれ、育ち、生きい、むごたらしい死に方、見方によれば、いのちの絶頂の一番生き生きとした、人体的にも精神にも、社会的役割からしても、若いお父さんのような、ある面では人生で一番、有効に働けるその命を、全く御父なる神様に献納されたのです。それは、神は御父、御子と深い信頼関係を持って対峙されて、尚且つその御思いは全く一つだから、地上の罪人にはあり得ないことです。此の事は御使いとは違って優れているのです。(5節)

l  「あなたは人の子らに勝って麗しい、あなたの唇からは優しさが流れでる。神はとこしえにあなたを祝福しておられるからだからだ。勇士よ あなたの剣を腰に帯よ。あなたの威厳とあなたの威光を。あなたの威光は勝利のうちに進み行け。真理と柔和と義のゆえに」正義としたら冷たく感じる。神の国とその義は罪人を見事に更生する義です。優しくもあり厳しくもあり、威厳を伴った救いのことばです。(詩篇45篇)

 

12月2日・礼拝メモ

ヨハネの福音書1:1~18節

「恵みと真実に満ちておられた御子」

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父の御元からこられたひとりごとしての栄光である。この方は恵みとまこととに満ちておられた。」    (ヨハネ1:14)

<はじめに>一年間の締めくくりの12月に入りました。クリスマスを待ち望むアドベントに入ります。聖餐式を持ってクリスマスに入ることをここ数年間やってきました。本当に意味深い事と信じて御名をあがめます。キリストの流された血潮によってだけ、私たちの心はきよめられるのですから、当然のことと言えばそれまでですが、それにしても12月に迎えるクリスマスは意味深い時であります。

l  「この年にふさわしいテーマを決めさせてください。」と願い出たら、神様はこの年のテーマは「天使(御使い)の働きを思い巡らしたらどうでしょうか」と諭して下さいました。ヨハネの福音書には御使いは出て来ません。ヨハネの福音書を最初から最後まで捜して調べてみる時間はありませんでしたが、「御使い」と言う言葉が見つけたら特別なマークを付けて、その記事を記憶に残しておきたいとも考えたことです。

l  御使いが一番活躍している福音書は、ルカ伝でしょうか、マタイ伝でしょうか、両方とも天の使い(御使い)がヨセフとマリヤさんにも現われて下さって、神の御子が人類に与えられる、その歴史的な出来事【ニュース】を伝えるために、天から遣わされています。天使の語りかけのないクリスマスは「炭酸の抜けたサイダーのよう」です。天使の語りかけが、どんなにさわやかな、豊かな、味の良い、深い、クリスマスを奏でている事でしょう。スカッとしたクリスマスを味わって行きたいと思います。

l  使徒ヨハネは、初代教会において、他の弟子たちのように、迫害の大嵐のなかでいのちを落とすような殉教の最後を遂げませんでしたが、12弟子の中では一番若く、一番後まで長生きして、丁度、漁師が漁を終えて、陸地に網を引き揚げて次の漁のために網を繕っている姿がそのままのような締めくくりをしています。この偉大な御子の誕生を伝えることを、いろいろなニーズに合わせて苦心した事がこの序文の中で伺えます。「初めに言葉があった。言葉を神ととみにあった。言葉は神であった。このことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。ことばにイエス様を入れるとその意味が分る「イエス様は神、イエス様は創造主、イエス様は真の光・・・」ことば=ロゴス(元のことばは)、17節に至って始めて、イエス・キリストが登場します。イエス様を紹介する言葉としてのロゴスは、人間社会でも言葉はその人の人柄・思い・人格を表現します。まして天地の創造者が、イエス様を紹介したく思ったら、神の表現を表す「言葉」と意味付けることでしょう。

l  第一に、イエス様は受肉された御方です。天使は天に翼を持って飛び回っていますが地上に降りませんでした。しかし御子は天から地上に舞い降りて下さって、私達の人間社会の中に、人類歴史の中に天から降りてきて下さり、一緒に住すまわれた御方、私達と同じ人間社会の一員となって下さったことです。「受肉」とは教会でしか聞かれない超難しい言葉です。神が人となって、現われて下さったことです。(昔、日本の皇室の先祖が神の御氏族として祭られ、現人神として敬意を表しましたが、あの痛ましい戦争の後、はっきりと天皇は現人神でないことが判明しました)、神が人となって現われてくださった事が「受肉」と言う言葉になります。この受肉が実現に至るまでは、長い人類の歴史がありました。神の民として歩んできたイスラエル民族と、その中で営まれてきた幕屋の制度です。そしてイエス様は私たちの間に住まわれた(幕屋を張って住まわれた)御方です。

l  第二に、この御方は恵みと真(ご真実)に満ちておられたと言うのです。恵みは時々刻々過ぎ去って行く時の流れの中で過去的、現在的、将来的に整理させて頂いたら、受けた恵みの大きさを味わえるかもしれません。もうとっくに忘れ去った過去の中から不思議に思い出す恵み、更に「私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。(ローマ5:2)」現在完了形の形かもしれませんが、ひしひしと現在ある自分を、そのまま認めた証として、更に将来において、天の御国でイエス様を囲んで受ける最高の交わりを夢見て、恵みに満ち溢れさせて頂きたい。真は真実と置き換えることができます。イエス様は真実な方で裏表のない、その通りの御方です。約束通りに旧約の土台に逆らわす、モーセの掟に生きたイスラエル人を愛して、その民が待ち望んできたメシヤが自分の使命だと自覚してから、その使命のために、神の皇太子さまは、恐ろしい十字架で罪人になることで、その使命を達成されたことです。

 

11月25日・礼拝メモ

ルカの福音書12:22~34節

「天に宝を積む生涯」

「むしろ、あなた方は御国を求めなさい。そうすれば、これらのものはそれに加えて与えられます。」(ルカ12:31)

l  <はじめに>11月最後の聖日を迎えています。急に寒くなりましたので、風邪を引かず、風邪を取り込まないでクリスマスを迎えたいと思います。今日のお言葉は聖書の中でも有名な聖句「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。(マタイ6:33)」です。神の国とは天の御国です。神の義とは神の用意して下さった救いの事です。此の事を第一に求めるならば、飲んだり食べたり、着たりすることの日常茶飯事の事は後からついてくると言うのです。身の落ち着く場所が語られてはいませんが、きっと神様は、その時々にふさわしい住居も備えてくださるに違いありません。11月は勤労感謝の祝日がありました。一年間の総決算の意味を込めて、神様に感謝を捧げて参りましょう。

l  マタイの福音書では、山上の垂訓で(6章末文)に見事にまとめられているメッセージです。おそらくイエス様は何回となく処々方々で語られたメッセージの要点であると思います。ルカの福音書では具体的に、その時に語られた経緯を踏まえて、このメッセージが語られています。それは沢山の群衆の中から叫び声をあげた。「先生、遺産を私と分けるように、私の兄弟に言って下さい。」遺産相続の骨肉の争いなのです。お兄さんが家の後継ぎで、あぐらをかいて頑張っていて、わたしの言い分が通らないので、調停役になって頂きたい。イエス様は、地上の裁判官や調停人の弁護士のように人の訴え願いを聞き、さっそく両者を呼んで言い分を聞き始めたと言うのではなく、その代わりに譬の話をなさいました。そして背後に隠された人々の思いを語られた。「どんな貪欲にも気を付け、警戒しなさい。人がありあまるほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」

l  ある金持ちの畑が豊作であった。彼は心の中で考えた。「どうしょう。わたしの作物をしまって置く場所がない。」11月に入り雪が降り出した。今年は大根が豊作だった。どうしよう、家の軒下には漬物のダイコンがいっぱい干してあるし、近所に分けてやったがまだ沢山残っている。雪に下で穴を掘って春まで蓄えよう。ネズミに食われないように、3月ごろの野菜の少ない時のことを考えて、その大根を3月ごろまで穴倉で寝かせた。さあどうだったでしょうか。そんな庶民の小さな豊作ではない金持ちの家での豊作です。倉をいくつも立て替えて、何年分も蓄える計画であります。倉の建て替えをやり遂げた。沢山の労働者も雇ったことです。この豊作を無駄にするわけにはいかない。さあ食べて、飲んで楽しめ、何年分もいっぱい物が貯められたのだから。

l  しかし神は言われた「愚か者、お前のたましいは、今夜お前から取り去られる、お前の用意したものはいったい誰のものになるのか。」目につく言葉は「私の作物、私の倉、私の穀物や財産、わが魂よ…」なんと自己的人生でしょうか。それに対してイエス様は

l  「いのちの事、体の事で心配する事はやめなさい。」ストップしなさい。ずるずると心配が膨らむような思いに流されないで、私たちの思いを豊かな供給者である神に向けるように、大自然の中で働いておられる神の御業を見せて下さいました。空の鳥(なんで鳥を(からす)と読ませるのか)不思議です。カラスは人の住むところに抜け目なく付きまとって、隙さえあれば人の食べ残しを狙っています。野のゆりでさえ、金銀財宝を尽くして意匠を尽くし、着飾ったソロモンの神殿以上の、生命力豊かな一瞬一瞬の色・つや・輝きを持ち合せています。子供がはしゃぎまわって、ひざ小僧のほころびを忘れて、野に咲く草花を集めたころのことを思い出しました。

l  イエスの言葉は「心配しないで大丈夫、大丈夫、大丈夫」と優しく諭して、永遠の供給者なる神様に、目の付けるようにして下さいます。伝道者パウロは語っています。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝を持ってささげる祈りと願いによって、あなた方の願い事を神に知って頂きなさい。そうすれば、すべての理解を越えた神の平安が、あなた方の心と思いをキリストイエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6~7)自分の心を納める、怒りを納めるのも知恵、心配をストップさせるのも心の大切な働きです。このステップを活用しましょう。天国の宝物は「信仰と希望と愛」と言う一見抽象的ですが、地上から天国に持ち込まれる宝物は他にはない事をしっかり諭させて頂こう。

11月18日・礼拝メモ

マタイの福音書28:1120

「いつもあなた方とともに」

「わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイ11:28)」

<はじめに> 

今日は宣教聖日です。秋の特別集会には、国外宣教局長、梅田登志枝先生を迎えることが出来ました。宣教のビデオの中では、局長のメッセージが入っていました。今年はボリビヤの三森先生方が引退されたので7つのフールドと、12人の先生方(家族を)を送りだしています。今年の2月には、テニュエック病院火災があって、局長はお見舞いの訪問、隣接のザンビアの宣教師館の献別式にも立ち寄られました。来年の8月には、宣教地アフリカ・ツアーも計画されています。全国から寄せられたコイン献金は、愛の泉献金として、昨年度は約200万、各地の先生方の活動と支援に用いられています。

l  教団創立記礼拝でも語りましたが、群れは当初より日本の外に宣教師を送りだすとの使命を手掛けて参りました。まだ日本の教会が開拓ままならない中で「世界は我が教区なり」とビジョンを掲げましたのは18世紀に生きたウエスレーのことばです。私たちの教団もそのスピリットにならっています。あえて日本からの宣教師派遣することによって、伝道の視野を広げて、自らの偏狭な思いの中から救われるのです。インド、アフリカのケニヤ、パプアニューギニア、ジャマイカ、ボリビヤ、フイリッピン、台湾、香港、カンボジアと宣教師が送られてきました。自分が召命を受けて出て行けなくても、宣教師の先生方(家族を含めて)を支援して支えることによって、自分がその場所に出向いたと同じ思いを持って、主の働きに加わることができるのです。

l  <大宣教命令>

イエスの権威の絶対性が強調されています。「私には天においても、地においても、一切の権威が与えられている」この福音書はユダヤ人に向けて書かれた事。主題は「王なるキリスト」です。神が人となって私達の間に住まわれて、生きる悩みのすべてを体験して、あまつさえ十字架で、私たちの罪の身代わりとなって下さいました。最後には、王として絶対の権威を持って宣教のために、弟子造りを促しておられるのです。1995年、対日されたバート・E・コルーマン博士は、数人の側近者が付きそってきたことです。それは弟子造りの見本でした。

l  「敬虔な聖書学者ロバート・リー」は晩年、聖地を訪れたとき事を語った。ツアーガイドがカルバリの丘を指差したら、博士は感動を抑えきれずに、一目散に必死になって駆け出した。ガイドも必死でついて行くほどでした。息を弾ませたままで頭を垂れ「博士、あなたは以前にもこの場所に来たことがあるのですか」しばらく張りつめたような雰囲気のなかで、囁くようにこのようにささやいだ、わたしは2000年前に此処におりました。キリストの十字架の時です。確かに2,000前に私たちはそのところに立って居てもおかしくはありません。私たちは各々自分勝手な道に向かっていたが、私たちが罪人であった時に、主イエス様は私たちの身代わりの死を遂げられたことです。

l  大宣教命令のライフスタイルは弟子造り方法論ではなく、キリストの愛に答えるためのものであり、自己の生涯の明け渡しを持って、おかれた立場で、自ら弟子であり、なおかつ自分の周りにたくさんの弟子を生み出す宣教のビジョンでした。たとえ犠牲が伴っても、必ず主が成し遂げて下さる御業であります。南米エクアドルの原住民の中に、白人宣教師5人が遣わされました。その宣教は最初から、5人命が奪われると言う悲惨な出発でした。世界中に悲報が伝わりましたが、後に残され家族、奥さんたちが希望を失わないで、福音の進展の中でなされた御業であることを祈りながら確かめて、見事にこの地に目覚ましい宣教がはじまりました。

l  締めくくりのことばが、今日のメッセージです。「見よ。わたしは世の終わりませいつもあなた方ともにいます。(マタイ28:20)」との約束は、マタイの福音書の当初・誕生の時に示された約束。インマヌエル。神が私たちとともにいます。(マタイ1:23)として語られましたが、その結末においても同じ約束を持って締めくくられています。聖霊の力強い働きが、その臨在とご同行を促すからです。「聖霊があなた方の上に臨むとき、あなた方は力を受けます。」(使徒1:8)初代の弟子たちのように、ペンテコステの体験をどうしても必要として、渇いて求めよう。そうしたらこの約束は本物になることでしょう。

 

11月11日・礼拝メモ

マタイの福音書11:2530

「たましいの安息」

「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたをやすませてあげます。(マタイ11:28)」

<はじめに> 

l  できるだけ分りやすい話を準備しました。「カラスなぜなくの、カラスは山に可愛い7つの子があるからよ。かわい かわいとカラスはなくの、かわい かわいと鳴くんだよ。」(童謡:野口雨情、本居長世)最近カラスは凶暴になって来ています。カラスは、鳥の中でもめずらしく、生まれながらにして黒い礼服を着て飛び回っている鳥です。カラスを凶暴にしたのは人間の出すゴミが問題かもしれません。カラスの大好物はなんでしょうか。それはマヨネーズです。マヨネーズを残してゴミに紛れ込ませると我先につついて、奪い合う姿を何度も見かけました。野生で生きていたカラスが都会で住み、ある面では甘やかされ、そしていじめられて、平和なカラスの生活スタイルが崩れてしまった。

l  穏やかそうに見える人間の社会も、物資の乏しかった70年前に比べたら穏やかで平和のように見えますが、一見、人の心の中を覗いて見れば、カラスと同じように、悪賢さ、憎しみ、ひがみ、いじめが根を張った社会です。昔に比べて穏やかに見えるのですが変わりありません。いやむしろ凶暴になりつつあるようにも思えます。お父さんが仕事から帰ってきて、「お父さんご苦労さま」と奥様と子供たちが笑顔で気持ちよく迎えたとすると、一日の疲れが癒されて、翌朝は元気を回復して仕事に立ち向かえる。奥様も任された家事に心を込めて取り組める。特別豪華な食事をしたわけでもないのに、愛している家族、愛されて頼られている自分がいる。そのような幸せな生活。できますか、取り戻されますか。できますとも。今日のお言葉はそのような生活スタイルを取り戻せるお言葉です。今日は3つのポイントでお話しをします。

l  第一「誰の声か」

人となってくださった神の御子イエス・キリストの声であります。この御方はかって地上に来たように、この世の締めくくりに再びきたもう御方です。彼の第一印象は、優しい柔和な人柄です。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。」社会のあらゆる企業の中で、疲れ切った人を、誰が好き好んでお招き下さるでしょうか。マタイ9章にはこんな言葉があります。「それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒された。また、群衆を見て深くあわれみ、彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。(マタイ9:35~36)」イエス様は、羊飼いの姿を全面的に表しています。彼の人類に対する使命は羊飼いなのです。その次の10章では、弟子入りして間もない弟子たちを廻りの町々に派遣します。「いいですか。わたしは狼の中に羊を送るようにして、あなた方を遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。」「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはなりません。むしろ、たましいも体もゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。一羽の雀さえ神の御赦しの下に命を落とすようなことはありません。」地上で生まれた人間には発することのできない権威を持って遣わしました。11章では己が町として親しんだ、ガリラヤ湖の町々が、主を信じるどころか拒絶してしまった事に対して、世の終わりの最後の時には、聖い審判に耐えられないことの警戒を述べられました。その締めくくりに今日のお言葉が語られました。

l  第二には招かれた対象者です。例外なしに疲れた人、疲れ切ってしまった人々です。仕事や任された責任を果たせないで疲れ切った人はいませんか、家事や育児の老いた父母の介護の重荷でもう投げ出したくなってしまった人はいませんか。自分の心を暗くしてしまう罪の重荷で捨て場所がなくて困り果てていませんか。ある家庭でルールを決めました。ケーキを切るのは兄、そのケーキを一番先に選ぶは弟、兄弟の公平さを保つために。将来に希望の持てない死の彼方にあるものに対して、正しく理解できないで、そこから来る不安と恐れが心をなやまされている方はいませんか。ギターの弦を張るときのことを考えてみてください。一番緩やかな太い線をどういうわけか、めい一杯張ってしまった。次に太い弦に取り掛かり、これも最大に張ってしまった。最後の高音の音の弦は、もう針金が引きちぎられるようなストレスがかかります。ユダヤ人にとっての神の掟はそのようなものではなかったかと思われる。イエス様はその重荷を適度の緊張に戻して下さったのです。

l  第三「招きの目的と結果」です。それはキリストと頸木を負うこと。つまりキリストを信じて受け入れることによって、自分だけの苦しみや課題(各自の重荷)だと思っていたことを、その荷物をキリストともに担ぐのです。イエス様は片方、自分はその片方を担ぐのです。私たちの力量に応じて、イエス様はその荷物を分散し調節して下さると言うのです。神学院に、雨の日に、作業の5人器方が来てくださいました。雨の日の作業を見つけるのに苦労しました。でも蛍光灯の取り変えの作業をみんなですることができ、その中には、麗しい一致を見ることができました、みなキリストに仕え合うことができました。ハレルヤ!!

 

11月4日・礼拝メモ

新しく生まれ変わる人生

ヨハネの福音書3章1~15節

イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることは出来ません。」(ヨハネ3:3)

<はじめに> 秋が深まってきました。肌寒さが感じられる頃です。今年は大きな台風のあった年でもありますが、神学院のカキとみかんが豊作です。「カラスは道具を使う知恵がある」と聞かされていましたが、カキを丸ごともぎ取って、別の場所で中身を上手に食べる、後は皮だけを残して立ち去る。次はみかんを狙っている。まあ油断も隙もありません。でも感謝です。一人一個ぐらいだけですが持参しました。

l  聖書の中でイエス様の尊い救いに与った人たちが何人も登場します。男の人、女の人、病気の人、元気な人、大人の人、子供、貧しい人、偉い人立派な人といろいろです。一人の老人が訪ねて来られた。この人は立派な身なりをして、その顔には威厳がありました。ユダヤの国議員の一人、指導者、神を信じ敬う敬虔な人でした。

l  ニコデモについてはパリサイ人であり、パリサイ人の生活様式を厳格に守っていた。ユダヤ人の指導者でサンヒドリンの議員の一人でした。

    ヨハネ3:115、最初の面接

    ヨハネ7:4552、おそらく最初の面接から1年後、サンヒドリン議会において、イエスのために弁護する。最初の面接の後、ひそかに弟子なったらしい。少なくともイエスがメシヤであることを受け入れる方向にかなり傾いていたであろう。

    ヨハネ19:39イエスの十字架の直後、その埋葬に際して、この時は大胆に決然とでてきた。アリマタヤのヨセフと一緒に没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ30キロ持ってやってきた。

l  イエス様に対しては、神より来る教師…神よりが強調されています。「あなたが教師としての資格は人からではなく神からです」と答えています。イエス様は30歳の青年教師、一方ニコデモは、60歳の定年を迎えるユダヤ人の代表するラビです。イエス様もこの立派な人物にしっかりと応対されたことでしょう。この人は「だれか身内の中で病気に苦しんで助けを求めてきたようにも思えないし、何か困ったことが特におありのようにも見受けられないし,そうかといって明るく心が輝いているわけでもない。でも聞きたい、でも知りたい」と思いました。しかしイエス様は、彼が訪ねたかった事を知っていました。

l  イエス様は「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と語られた。ニコデモは肉体の再生だと思ったが、イエスのことばから魂の新生だとわかった。なぜ魂の新生が必要なのだろうか、それはニコデモだけでなく、人間はすべて魂が死んでいる状態だからである。魂の死とは丁度、根から切り取られた草花のようなものである。その花は、一時的には美しく栄えるが、やがては枯れてしまう。その死は根から切り取られた時から始まっている。人間もそれと同じで、創造主である神から離れて、背を向けて生きており、それゆえに数多くの罪を犯し、ちょっとしたことで怒り、憎み、妬み、争う。その行く先は滅亡にほかならない。人間がもう一度生まれると言うことは、魂が新しく「永遠の命」を得ることである。自分の罪を悔い改めて、神とキリストを信じる者には永遠の命が与えられると、主は約束しておられる。

l  人間には二つの誕生日がある。肉体の誕生は地上から、天に対して下からの誕生で、そのいのちは地に帰って行く生命です。一方、第二の誕生は上方からの誕生で、心の生まれかわりです。聖霊の働きによるもので、動力は聖霊です。聖霊は風の力のように働きます。風は思いのままに吹く、風の働きと力は確かである。この新生命を受ける者は、永遠まで続く永遠のいのちを持つのである。私たちがこの新生命を得るために、神の愛とそのひとり子の犠牲を素直に信じるときに、神様は恵みのゆえに、私たちの心に働いて、第二の誕生をもたらします。

l  ところで、わたしの救いの体験は、単純素朴なものでした。25歳の誕生日前に、鉛色の東京の空を眺めていました。有楽町のビルの谷間を通りながら、誘われた伝道集会で、放蕩息子の譬の話を聞いて、救い主イエス様を信じて受け入れた事が、わたしの入信体験です。今思い出すとその時から教会生活が始まり、今は恐れ多くも牧師の仕事をしています。信仰とは仰ぎ見る事である。「地の果てのすべてのものよ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしは神である。他にはいない。(イザヤ45:22)どうかイエス様を信じて、この生まれ変わりの体験をして頂きたいと思います。

10月28日・礼拝メモ

礼拝説教(湘南181028)特別礼拝

梅田登志枝師

Ⅰコリント3:1~9節「幼子から大人へ」

<はじめに>

l  この度お招きいただきありがとうございました。「この教会のステンドクラス、教会らしくていいですね」徳竹先生たちとは神学生時代は同期あるいはそれに近くありました。私たちは無意識のうちに他の人と距離感を意識しながら生きています。このコリントの教会の人々も3つの距離感を持って、グループ分けされたと語られています。

    ただの人…生まれながらの人、まだイエスキリストを信じていないグループの人です。

目に見えない霊の世界に生まれかわっていない、神様がおられることも聞いたことがない。ここに座っておられる方もかってはそうでありました。世の中の価値観に流され多多種多様な生きざまの中で生きていたことでしょう。

    肉に属する人…あるいはキリストのある幼子です。ただの人ではない、確かにイエス様を信じて生まれ変わってはいますが、試練がやってきたときには信仰によってその問題を乗り越えて行く事ができない、過去の罪に戻ってしまいそうになったり、戻ってしま多様な生活を送る人々です。霊の世界の幼子であるゆえに、信仰の弱い人にはつまずきを与えてしまう。

    霊に属する人…あるいはきよめられた人、あるいは成熟した人と言うグループです。今日はこの②グループと③グループについて考えてみたいと思います。「幼子から大人に」と題を付けさせて頂きました。

l  このコリント教会はパウロによって開拓されました。その後パウロは小アジアのエペソで伝道していたとき、コリント教会では分派、礼拝秩序の乱れ、不道徳、結婚の問題、主の復活の問題などがありました。その背後には世俗主義と言うものがありました。世の中の生活原理がうまい具合に教会の中に忍び込んでいた。ですから善悪の判断基準を持って訓練された人々ではなくて、いつも未成熟な自己中心な幼子であった。妬みや争いが肉に属する人の中にはありました。その人たちはクリスチャンになる前のただの人と全く変わらないようでした。妬みは、他の人が自分より優れた人だと思って妬むことです。あの人と自分とくらべて、うらやましく思うことです。つまり自分に与えられている恵みや個性が見えないために、廻りの人の素晴らしさや卓越さだけが見えてしまう。クリスチャンも悩むことや妬むことがあるのだと言うことです。特に自分と同じような境遇や立場にある人と比べて、優越感に浸ったり、劣等感に陥ったりするのです。肉の兄弟姉妹でも起こりうるのです。創世記の4章ではカインとアベル兄弟のことが書かれています。最初の殺人事件ともなった出来事です。兄カインの献げ物が神様に受け入れられず、弟のアベルのささげ物が受け入れたことによって、兄は弟を妬んで殺してしまうと言う事件です。心の中に忍びこんだ妬み争い恨み大きな犯罪の着火剤となるのだとうことです。

l  コリントの教会には党派心を持ってグループ別がありました、神様以上に、人を見てパウロ派、アポロ派とありました。教会の牧師に対する健全な理解が出来ていないゆえに起こるのではないでしょうか。牧師は僕です。先週は教団創設記念礼拝が持たれました。中目黒教会では開設70周年の記念も兼ねた礼拝でした。私たちが遣わされた時、どうして私たちのようなものが4代目の牧師として遣わされたのか、二人で首をかしげてしまうほどでした。3代目までは競走馬で走り続け、私たちはロバにも満たない者が遣わされた事ですから、教会員の方々も大きな戸惑いを感じたことでしょう。私も3代目の器によって育てられてきたのです。先生方を見ると、神と人に仕えた良き僕でありました。その事が、教会の方々によってしっかりと受け継がれていると言うことです。ですから私達のようなものも受けいれて下さったのだと思います。

l  コリントンの教会は特定のリーダーをあげて、その人に付、教会の一致が保てなくなった姿です。教会のトップはパウロでもアポロでもなく主イエスキリストであるのですが、教会に遣わされた牧師に対する正しい認識、教会の主は遣わされた人ではなく、主イエスキリストであることを解って頂きたかったのです。植物のたとえを用いていますね。大切なことは成長させて下さる神なのですと語っているのです。私たちも人ではなく主イエス様にしっかりと繋がった信仰者であらせて頂きたい。

l  御霊に属する信仰者とは失敗や欠点のない完全なクリスチャンと言うわけではありません。失敗も弱さを持ちながら、神様を心から愛したいと言う思いを持っているのです。どんな課題に直面しても、神様に対する信仰がぶれない人、神様はいかなる状況にあっても神様は私を愛して下さっているその愛を疑わない、その信仰を捨てない人の事だと言うのです。

l  御霊に属する人になるにはどうしたらよいのでしょうか。「聖書通読や祈りの時を持つ、集会に出で献金をする」と言う信仰者の基本をマスターしていればよいと言うわけでもないのです。それは恵みを受ける手段ではありますが、それ以前心の奥底まで探って頂き、内側から変えて頂く必要があるのです。私たちは行いとしての罪は十字架で赦して頂きました。しかしクリスチャンらしくない自分の姿に気付き悩むことはないでしょうか。それが罪の本質的なものであり、神様に逆らう不信仰やプラシドを捨てて、すべてを明け渡すと言うことが必要です。自分の体に故障あれば、医者にまかで私達の病巣、罪の根っ子から出てくるものをイエス様に手術して頂く必要があるのです。不信仰、プライド、怒りの自制、具体的に誰かを赦せない頑固さなのでしょうか。

l  体の不調があるならMRIで体を調べて頂くように、人の心の姿も同じように、聖霊の光にたらし出されて心の奥底まで調べて頂き、十字架の愛に心を向けようではありませんか。まとめさせて頂きます。①不信仰、自己中心の心を認め、求め悩む人になる。ここがはじまりです。②もう一度イエス様の十字架を見上げて、過去の罪の赦しだけではなく、罪の性質で赦しをも信じて進み行きましょう。③そして更に、歩みつづけることです。問題も弱さも持ったままで、主と共に歩むと決めたら歩み続ける。それぞれ皆様方のご生涯が聖霊に満たされた生涯でありますように祈りながら、今朝の話を締めくくらせて頂きます。

 

10月21日・礼拝メモ

創世記12:1~9

「あなたは祝福の基となる」

 「私はあなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪うものをのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:3)

<はじめに>

l  秋も深まり、ひんやりとした朝夕です。神学院のカキも豊作で、オープンキャンパスの来会者におすそ分けをすることができ感謝でした。今日は教団創設記念日です。インマヌエルとは「神がともにおられる」と言う意味です。あの終戦(敗戦)からようやく立ち直り始めた、その年の昭和20年10月21日を教団設立記念日として、スタート致しました。今日はその建てられた使命と目標が少しでも、色あせないで後代に受け継がれるようにと設けられた記念日です。

l  その時に生まれた人が73歳ですから、二世代以上の当初の活躍された方で、生き残っているとすれば、100歳を超えた方々です。当初は物資が乏しく貧しかった。しかし、新しい時代をこれから生きようとする意欲は国民全体の中にみなぎっていたと思われます。そんな中で、戦時中弾圧を受けて、もし許されたならば祖国にもう一度リバイバルの業を実現させて頂きたく、私たちが救われた後、誰しもがきよめられて、主の御用人になろうではないかと始まった教団でした。

l  聖宣と言う二つの漢字が当てられた。三つの柱があります。

聖…聖書信仰、聖書はその書かれた原書して、誤りない神のことばと信じ受け取らせて頂いております。この時代にそのような立場で証しさせて頂いております。

聖…聖書に基づいた信仰者のきよめの信仰です。救いの恵みに与ったお互いが、心の汚れがきよめられて、聖霊に満たされた生涯に進むことの大切さを体験しています。

宣…世界宣教です。日本の伝道に留まらずスタートより国外の働きを開拓当初から担いながら、神の御旨を実践して参りました。

l  蔦田二雄と言う人物、初代総理は、教団を発足した当時は30代と言うのですから、年若き指導者であられました。昭和の初期に起こったリバイバル(信仰復興、日本橋聖教会)の中を通られ、その群れが戦時中、共産党と同じレベルで、当時の軍国主義国家の方針に背くとの嫌疑で、特高警察によって拘束された。囚われの身となって、獄中2年間の拘束。その後釈放され再び自由な身にもどされた事になるわけです。獄中で命を落とされる器もありましたが、先生は年齢が若かったからもしれませんが、もし自由な身になったら、リバイバルに通じる使命を持った教団として、再出発のビジョンを与えられたのです。

l  アブラム(後に名前がアブラハムと改名した人)信仰の父、神の友として聖書に登場します。彼の齢は175年です。このハランを出発して、行き着いた場所はカナンの地でしたが、75歳の時にここに記された神の啓示を受けたのです。その時の旅路は、おしなべて(様々な脱線も含めて)、目に見えない神を、まるでいつも目の前に据えて、生活する人の模範者でありました。彼の生涯は信仰の父として、結末は神に愛された信仰の友と言う姿が彼の生涯であった。

l  このアブラムは、古い偶像礼拝の体質からの離別をするために、少なくても3重の決別を余儀なくされた。

    あなたの土地(今れ故郷)あなたの国(祖国)…親しい者からの離別

    あなたの親族…より親しい者からの離別

    あなたの父の家を離れて…最も親しい者からの離別、ここに至って更に新しい出発の時となりました。

l  神はアブラムに3重の祝福を与えられた。

    大いなる国民として…天地の造り主である神の民として、イエス・キリストの誕生の母体となるユダヤ人の系図の最初に据えられた。それは天国の住民の全体に通じる偉大さを表しています。

    大いなる名…ユダヤ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒は彼の事を父(偉大なる信仰父)と呼んでいる。彼の名はイエス・キリストを神の御子と信じるキリスト教徒ばかりではなく、ユダヤ教徒、イスラム教徒の方々も、その祖先にこの人物をおいている、まさに世界宗教の祖先にある人物となって、歴史に輝いた人物でした。

    大いなる祝福…一時的、物質的祝福だけでなく、霊的祝福、それは全世界にも及ぶほどの祝福の基となった。彼が約束の実子・イサクが与えられるまで、望み得ない状況でありながら、失敗にくじけず神の励ましを信じて、待ち望む姿勢を持ち続けたことは、彼の祝福の基にふさわしい勝利であった。信仰の父アブラだけでなく、それは小さな私達に対しても、同様に信じて祈る私たちへの励ましであります。

 

10月14日・礼拝メモ

へブル人への手紙10章1~39節

「恐れ退くことなく、信じていのちを保つ」

しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。

(へブル10:39)

<はじめに>

l  秋が深まってきました。今日は召天者記念の礼拝です。遠近からこの記念日のためにお集まりくださり感謝致します。スポーツの秋から読書の秋へ心が向いて行きたいと思います。世界のベストセラーである聖書を読み続けましょう。聖書は親愛なる天の父からの恵みと愛を頂く手紙です。(今日は今までにない長い聖句を司会者に読んで頂きました。それはわたしのミスであります。しかし神様の理由があると思っています。)

l  大切なことは、漫然と時を過ごすのでなく、私達のたましい、心、肉体管理のために、こころの糧を頂きたい事です。私たちは毎日、神様が用意して下さったケーキを頂くと考えてみたらどうでしょうか。ケーキの全体を美味しく頂くのです。クリームやイチゴの部分だけでしたら、きっと食べ飽きてしまうでしょう。また健康上良くない。土台のスポンジの部分も合わせて頂くのです。今日は召天者記念の時です。信仰生活の土台の部分に目を留めてみたいと思います。

l  先週の祈祷会はルツ記3章でした。ルツは先輩に当たるナオミの知恵を頂き、大きな期待をかけて、この時を神様の備えて下さったチャンスを生かしました。丁度、司会者が雅歌2:1「私はシャロンのバラ、谷間のゆり」とお言葉を開き、イエス様はこのような香りを放つ人でした。また教会で最初に話しかけてくださった方がそうでしたから心が和みました。私はメッセージの皮切りに、伝道者の書の中から、「すべてのことに定まった時期があり、天の下のすべ他の営みに時がある。生れるのに時があり、死ぬのに時がある。」・・・神のなさることは、すべてに時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることは出来ない。(伝道者3:11)メッセージは「時(チャンス)を見極め、愛の神の御前に決断して進みましょう。」でした。

l  神様は人の心に永遠を与えられたのですから、その永遠がどのような所かも解き明かして下さるに違いない。そのような思いから今日の聖句を思い出したことです。慣れない聖書の長い御言葉にお付き合い下さってほんとうに感謝します。神の国は神の国から遣わされた使者、救い主イエス・キリスト様を通して私たちは知ることが出きます。イエス様が伝道を始めた時,語られたキーワードがあります。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」マタイ(4:17)と言う言葉です。そして、私たちが信仰によって、心の目が開かれた時、なんと素晴らしい神様の愛を頂いていることに気付かされる事です。私たちはこの世にあって、明け暮れして、自分が一国一城の主のごとく、永遠の主、神ご自身と向き合うことができませんでした。これが罪を持った人間の姿です。

l  救い主イエス・キリストは神の御子であり、天から遣わされ御方です。旧約聖書の時代には、長い年月をかけて、幕屋の儀式を通して、その解決のために、動物のいのちがこの人間の罪を赦すために、捧げ続けられてきましたが、その終わりを告げられたのです。その事がこの箇所に書かれているのです。その最後の締めくくりに、神の御子が十字架にかかられて、罪を持たない御方の血(いのち)が私たちの身代わりになりました。ですからこの御方のゆえに、大胆に聖所(贖いの道)から入る事が許されているのです。今日の聖句はそのような、キリスト信仰の土台となっているお言葉です。

l  永遠の御国は、罪、汚れ、憤り、不安、恐れから除外された、義(正しい基準と秩序)平和(人の心の闇がないので相手を十分に受け入れて、相手に受け入れられて)愛し合う世界です。その中心に御父と、この世に遣わされた御子、御子の心の中に生きていた神の御霊、それはまた信じる私達の心にも住んで下さり、まさに永遠者なる神と、キリストを信じて目を閉じ、死にて復活して、神の国の住民になった人達の世界です。

l  ここにお写真を拝見させて頂いて入る方々も、その生涯において心を開き、救い主を心にお迎えできた人達です。私たちも地上にあって、様々な試練と闘っていますが、もうしばらくすれば、来るべき御方が(ご自分を待ち望んでいる人々のために)この世の締めくくりのために来られるのです。勇気をもって、「恐れ退くことなく、信じていのちを保つ」生涯であらせて頂きましょう。

 

 

10月7日・礼拝メモ

使徒の働き14章19~27節

「信仰にしっかり留まる」

弟子たちの心を強め、信仰にしっかりととどまるように勧めて、「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない」と語った。(使徒14:22)

<はじめに>

l  最近の天気予報は、ほぼ当たるようになりました。先週は台風24号で予報通りの暴風雨の大あらしでした。昨夜はまた、台風25号の影響でしょうか暑さがもどり寝苦しい夜でしたが守って頂きました。昨夜は夢を見た。おいしいハンバーグがお皿に乗って一つ出された、それを1/2、もう一つを更に1/2切って分け合って食べた。その美味しかった事。それで夜中に起き出して今日のメッセージのために祈ることになりました。

l  先週、福音はうれしい事、楽しいことだとお話しをしましたが、今日はそれと同じように福音には大きな希望があることを最初に考えてみたいと思います。だれもが希望を持って生きています。希望が無くなったら生きられない大切なものであるからです。希望は生きるエネルギーのような感じがします。年配者が多くなってきました。今年の5月には小中一貫して育った二つのクラス会、当時90人の卒業生でしたが、集ったのは16名でした。そして16人はもうこの世にはいないと言う実情でした。その中で農協に努めた人が、思わぬ人間関係と、資金のやりくりの中で精神をすり減らし、病に陥り、しばらく精神科の病院にお世話になった。その病院の医師は良いアドバイスをしてくださった。「孫と一緒に一年間戯れること」を勧めた」と言う。それが何よりの効果がでて見事に別の仕事に復帰した。孫の健気な動作の中には疲れを癒し、病を癒す希望が隠されていたのかもしれません。

l  聖書には大きなどっしりとした希望が隠されている。愛と平和の故郷、天の都をめざして生きられる幸せです。クリスチャンの希望です。私たちはもうすでに、かなりの労苦を体験して、「自分の人生はの苦しみの連続でなかったと思う位です。同じ苦むなら、生きがいのある苦しみの中を通過することの方が幸せです。福音は何よりも将来に希望をもたらすもいのです。「警察の指名手配から逃れた40日、どんな思いで、悪知恵、苦しみや、孤独にさいなまれた事でしょう」これは極端です。同じ苦しむなら、未来に大きく開けた希望に向かって心は萎まないでいたいです。倒されてもまた回復して行けます。聖書のお言葉をそのように読み続けたい。

l  今日お読みした聖書はパウロの第一回伝道旅行の締めくくりの部分です。おそらく2年かぐらいの伝道旅行であったらしい。彼らの旅路を辿ると(134節から)小アジアのデルべの町近辺が折り返し点で、そこからもう一度、宣伝えた場所を、再度訪れながら引き返した。なぜそのようなことをしたのでしょうか。そのあたりから考えてみたいと思います。

l  この引き返した理由がまとめられているのは22節です。弟子たちの心を強め、信仰にしっかりととどまるように勧めて、「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない」と語った。(使徒14:22)せっかくイエス様の良き訪れを聞いても、その時の気まぐれのようなことで聞き流さないで、心の肉皮に刻まれるまで温める必要があったことです。信仰に留まることの大切さを考えてみましょう。

l  「信仰に留まる」と言う言葉でヨハネ15章を思い浮かべることです。実を結ぶためには、剪定を受けて、絡合ったり、混雑の枝を払ってすっきりとさせることです。大嵐の後、耐え抜いた木々は枯枝を落としてスリムになって、イエス様の太い幹に、その枝として繋がります。キリストを信じて受け入れた人の心には、永遠の神が入ってくださり、イエス様のお墨付きを頂くのです。イエス様は私たちの心に入って永遠の友となってくださるのです。

l  キリストの愛にとどまる。キリストは私達が頼みもしないのに十字架に付き私たちのために刑罰を受けて下さいました。神様がこよなく私たちを愛していて下さることを、私たちが知るためでした。実にキリストは「私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んで下さいました。正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいつかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であった時、キリストが死なれたことによって、神はわたしたちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:6~8)私たちが信じることで、神様がキリストを通して永遠の希望を私たちの心に吹き込み、その中で生きる者として下さいました。