秋の特伝チラシ2017(正式版).pdf へのリンク秋秋の特伝チラシ2017(正式版).pdf へのリンク

本文へスキップ

インマヌエル湘南中央キリスト教会は、神奈川県は茅ヶ崎市、ライフタウンの中にある教会です。

TEL.0467-54-7740

〒253-0006 神奈川県茅ヶ崎市堤89-5

メッセージを読んで頂きありがとうございます。


915日・礼拝メモ

Ⅰペテロの手紙11325

「わたしが聖であるから、あなた方も聖として」

むしろ、あなた方を召された聖なる方に倣い、あなた方自身、生活のすべてにおいて、聖なるものとなりなさい。(Ⅰペテロ:15

<はじめに>

l  今日は謝恩日聖日です。直接献身をして、「神と群れに忠実に仕えて来られた引退・現役伝道者の祝福と福利面で充実を祈る機会になるように。」との願いが込められています。「神のことばをあなた方に話した指導者たちのことを、覚えなさい。彼らの生き方から生まれたものをよく見て、その信仰に倣いなさい。(ヘブル137)」また教会のご高齢者のために、老後の人生の祝福をお祈りする時でもあります。

l ガリラヤの漁師が世界中に届く手紙を書くと言うのですから驚きです。ペテロやヨハネたちが書いた手紙が、新訳聖書の中に組み込まれているのです。しかも、個人的なものでなく、共に信仰の戦いをしている同胞のためにです。そして聖書に触れる全世界の人に当ててです。シルワノと言う書記の助けもあっての事でしたが、それにしても、ペテロの信仰に輝いてた生き様は、切々と私達の胸に響いて参ります。ペテロは「生ける望」を証ししています。それはまた「朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない天に蓄えられる資産」と語られ、生ける望みを持たせてくれるのです。信仰の試みは、火で精錬させてもなお朽ち果てゆく金よも尊い宝として描かれています。

l  今日は信仰者の基本姿勢「あなた方を召された聖なる方に倣い、あなた方自身、生活のすべてにおいて、聖なるものとなりなさい。」(Ⅰペテロ:15)に目をとめてみたいと思います。彼の生涯の中で、神のきよさ「聖」に向き合った出来事を中心に、わたし達の信仰生活に当てはめて行きたいと思っています。

    召命に預かった時(ルカ伝5111

彼らは一晩中漁をしたのに獲物はありませんでした。そのような彼らの舟を借りて舟の上から海岸に集まった群衆に向かって説教したイエス様でした。そして「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい」その声に応えたペテロたちの漁は舟が沈むほどの大漁でした。その時ペテロの口から出てきた言葉は「主よ、私から離れて下さい。私は罪深い人間ですから」と答えています。自分がガリラヤ湖の漁師であり、その専門家でした。プライドもあった事でしょう。しかしこの出来ごとを通して、聖なる主に対して、世俗的な自分の高慢不遜の思いが、深く彼の心に印刻されたのでしょう。わたしは罪あるものです。あなたのそばにいることは耐えられません。わたしから離れて下さい。なんと正直な彼の告白の言葉でしょう。その時更に「恐れることはない、今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」との神聖な神の声が彼の良心に語られたのです。

    主の裁判の法廷で主を拒む(ルカ225462

十字架を前にして、最後の晩餐の席上ペテロ:「主よどこにおいでになるのですか、」主:「わたしが行くところには、今ついてくることは出来ません。しかし後にはついて来ます」ペテロ:「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」「まことに、まことに、あなたがたに言います。鶏が鳴く前に、あなたは3度わたしを知らないと言います」。その通りに主を裏切り、気がついたときには主が、法廷からペテロの方を見て、彼と視線を交わすことになます。自分の軽率さ、そして何が起こっているか状況をつかめないまま、外に飛び出し大泣きをしています。この時もイエス様の神聖さにふれ、罪深い自分を深く諭された一瞬でした。

    十字架を超えて復活した主との出会いの中で(ヨハネ21:1~19)

7人の仲間とともにガリラヤ湖で漁に戻った時、その夜は何もとれない朝を迎えます。しかし、復活された主が声をかけられます「子どもたち食べるものがありませんね。舟の右側に網を打ちなさい」、その時も、153匹の大きな魚が捕れて大漁、主は朝食まで準備して下さいました。「わたしを愛するか。このもの以上に愛するか。・・・わたしの子羊を飼いなさい、わたしの羊を牧しなさい」とペテロに優しく力強く、聖く、ペテロに罪を深く自覚させると共に、神なる厳かな召命に立ち上がるように導かれました。ペテロの心は神の神聖な赦しの愛に触れ、聖別され、聖霊降臨のペンテコステを待つ群れの中心的存在となられました。

l  ペテロは失敗の多い出来事の中から、神の神聖さを着実につかんで行きました。最後は希望の聖徒として、素晴らしい神の証人に数えられて、導かれて、キリストとくびきをおいつつ、苦難の中でも輝いて一生涯を閉じます。わたしたたちも失敗や主の御心からそれた事も多かったかもしれませんが、しかし、ペテロ同様、様々な困難の中にあっても主を見上げて、聖き勝利を得させて頂きましょう。

 

98日・礼拝メモ

ヨハネの福音書44354

「行きなさい、息子は治ります」

イエスは彼に言われた。「行きなさい、息子は治ります。」その人はいイエスが語った言葉を信じて、帰って行った。(ヨハネ450

<はじめに>今日は歓迎礼拝です。久しぶりに憲子師の救いの体験を聞くことが出来、改めて救いに預かった事の大切さを覚えた事です。「人が栄華のうちにあっても、悟ることがなければ滅び失せる獣に等しい。(詩篇4920)」とあるように、やがて迎え入れて下さる天に豊かな宝を積むお互いでありたい。

l  主イエス様がサマリヤの町に、二日間足をとどめた事で、町全体の人々が救いに導かれた。そして主は更に、ガリラヤ伝道のために北上された。ガリラヤ伝道の根拠地はカペナウムという町でした。その町に病気の息子を抱えた、王家の役人がいたがその息子の病が重くなり困り果てていた。主イエス様がガリラヤのカナに滞在されていることがわかり、家にお連れして病気を治してもらうことを考えた。病を煩う本人も、病人を抱える家族の苦悩も計り知れません。その苦しみがイエス様を見いだすチャンスとなったことは何にも代えがたい宝でした。

l  同じような記事がマタイの福音書にあります。百人隊長の信仰(マタイ878

隊長:「主よ、私の僕が中風のために家で寝込んでいます。ひどく苦しんでいます。」

主:イエスは彼に「行って、彼を治そう」と言われた。

隊長:しかし、百人隊長は答えた。「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば私の僕は癒やされます。」と申しますのは、私も権威の下にあるものだからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に「行け」と言えば行きます。別の者に「来い」と言えば来ます。また、僕に「これをしろ」と言えば、そのようにします。

主:イエスはこれを聞いて驚き、ついてきた人たちに言われた。「まことにあなた方に言います。わたしはイスラエルの内だれにも、これほどに信仰を見たことはありません。」

l  <この箇所では>

主:イエスは言われた。「あなたがたは、徴と不思議を見ない限り、決して信じません。」父親:王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか子どもが死なないうちに、下って来て下さい。」違いがわかりますか。私たちはよく「神様はこうして下さったから信じる・・・」と言う事がよくあります。この父親はイエス様のお言葉を信じて、イエス様の下を離れて帰途についたのです。

l  イエス様が「その息子は治っています。」と言ったとき、病人を抱えた家では、今し方まで、熱もひどく、息も苦しいのですが、急に熱が下がり、呼吸ももとに戻り、病気は癒やされたのです。その時間を訪ねると、イエス様の御口から言葉が出た時間と一致するではありませんか。距離が離れていても、イエス様はお言葉を持って病を癒やされることができる御方です。

l  願わくは百人隊長のように「お言葉を下さい」それで十分です。あなたは神の御子ですから、あなたの御口の言葉には、神の権威と力があります。また、その生涯をかけられた十字架の赦しを持って、私達の肉体の病も癒やして下さるのです。十字架の御愛は、私達が神の戒めを破って、犯したそむきの罪を赦して下さったことですが、人格の奥に、この赦しの愛を頂くと、罪深い心の病も一掃して下さいます。そして外側の見える部分の病も癒やして頂けるのです。この父親もイエス様の言葉を信じて帰途についたのです。

l  このヨハネの福音書には締めくくりに、トマスという弟子が、十字架につけられたイエス様の復活を疑って、「手と脇腹を見ない限り信じない」とかんばり通した姿が描かれています。イエス様は「見ずして信じるものは幸いです」と優しく丁寧に諭して下さいました。私達は、人の言葉でない聖書の言葉に対して、幼子のような単で純粋な信仰を働かせ、神の用意して下さった救いを信じて受け取りましょう。心の健康は、その信仰を働かせて神を仰ぐことから始まり、病む肉体にも大いに働いて健康体になると言うことがわかります。

91日・礼拝メモ

ヨハネの福音書43442

「蒔く者と刈る者が共に喜ぶ」

「しかし、あなた方に言います。目をあげて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。すでに、刈る者は報酬を受け、永遠に至る実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。(ヨハネ43536

<はじめに>

l 9月に入りました。昨夜は久しぶりに夢を見ました。どんな夢かと言いますと、トンネル工事の現場の夢でした。少年時代に山奥からブナの大木を運ぶために、山をくりぬいて林道を造る工事があった。トンネルが貫通して反対側の出口の光が見える。村中の人がその貫通に驚いて見物に駆けつけた。その掘り出した土砂が、モグラの塚のように、転々と山積みされ、そこが遊園地になり、軽石のような、プラスチックのような素材でできていた。「その素材は宇宙から運んできたのだろうか」と言うところで目が覚めた。一人の人が、救いに預かる事は、天においても地においても大きな喜びである。その喜びを伝えることが伝道です。今年も9月を含めて残り4ヶ月になりました。この聖書の言葉がぴったりと当てはまります。このサマリヤの女の人に何が起こったのでしょうか。水瓶をおいてすぐに町の人々の方に駆け出して行った。イエス様を伝えるために、伝えずにはいられない思いだったからです。

l  「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント517)伝道することは、何よりも楽しいことです。「親子でそのような会話をしていた」と言う、村上宣道先生の証を思い出します。小さい頃から聖書の話を聞いて、賛美歌を歌い、お祈りをしないとごはんも食べられない中に育った。自動的にクリスチャンになり、天国にいけるものと思い込んでしまっていた。その時、一人の年輩のご婦人があらわれて、こう言います「牧師さんの子どもだからといって、そのまま天国にいけるものではありません。ほら、聖書の中に、イエス様がニコデモさんに語られた言葉があります。このニコデモさんはりっぱで偉い方だったのです。でも、人はだれでも新しく生まれなければ、神の国に入ることができません」ですから「新生の喜びは、ご飯を食べるより楽しいこと、それがイエス様を伝えることだ」と諭して下さった事です。

l  私自身の体験の中にその喜びが何回あったのだろうかと反省させられた。弟子たちが夕食の準備をして「さあ召し上がって下さい」と勧めたとき、もう誰かが差し入れをしてくださったのだろうかと思うほど、イエス様の心は生き生きとしておられた。イエス様は「人が生きるのはパンのみに在らす、神の口から出る一つ一つの言葉による。」と、40日の断食のあと、サタンの試みを見事に退散させた言葉でした。

l  「蒔く者と刈る者がともに喜ぶ」種まきだけの苦しみだけでなく、収穫の喜びも一緒に喜ぶ教会の伝道に目を向けて参りましょう。私は青森で開拓伝道をしました。「種まきの5年」と整理していましたが、まんざら種まきばかりで終わった5年間ではなかった、任地を離れるときは数名の方が教会に加わっており、後任の方に委ねる事ができた。今日は防災の日です。青森の先輩の器方は私たちの開拓を歓迎して下さり、八甲田山の麓にあるロッジに招待してくれました。そのロッジは海難事故、青函連絡船洞爺丸の時に、パニックの中で多くの救命道具をつけさせ、自分はいのちを落としたという宣教師の家族からの依頼で建てられた記念ロッジでした。先人の種まきの労苦が、あなた方の労しなかったものを刈り取る。この言葉は真実です。

l  伝道の喜びは地上のつかの間の喜びから、永遠に神の国を望む喜びに発展します。教会は地上の教会だけでなく、先に天国に行かれた方々といずれともに交わる、永遠の価値を持った場所ですから、この世では与えることができない天の祝福が約束されているところです。伝道に励みましょう。イスラエル人にとって約束の地カンナがあったように、全世界の民にとっても約束の地、天の御国が用意されているのです。地上の飲み食いの喜びを超えて、永遠の喜びに心を向けて行きましょう。伝道する事によって、十字架を通して罪を赦して下さったイエス様に対する愛が本物になり、さらに、私たち自身もイエス様のように初穂となって、収穫の束を携えさせて天の御国へ凱旋するのです。「ですから、私の愛する兄弟たち、堅く立って、動かされることなく、いつも主のみわざに励みなさい。あなた方は、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」(Ⅰコリント1558

8月25日・礼拝メモ

ヨハネの福音書42738

「わたしの食べ物」

「イエスは彼らに言われた。「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。」(ヨハネ434

<はじめに>

「人生は出会いで始まる」とはユダヤ人哲学者マルチン・ブーバーの言葉です。」小松に伝道していたとき、一人の娘さんが、よほどこの言葉が気に入ったのか、早速教会の証に立った時、「人生は出会いではじまる・・・」と証を始めました。人々が出歩くことが好きなのは出会いをもとめるため。この夏もたくさんの出会いがあった事でしょう。私はどこにも行かけないで、皆さんの来るのを待ち望んだ、この夏でした。それでもかなりの出会いがありました。

l  人と人との出会いに勝る、人生の出会いは救い主イエス様との出会いである。この聖書の箇所から教えられる事です。そのことの故にまず感謝を献げます。神様は私たち一人一人の人生を最初から最後まで知ることができる全能全知のお方です。このサマリヤの女の人とイエス様との出会いもそのような出会いでありました。「わたしの全部を知り尽くしておられるイエス様」と言っています。神は私を知って、最善の道に導かれると言う事は、クリスチャンなら理解できます。

l  先週の早天では創世記の第3章から「あなたはどこにいるのか」との神様の呼びかけに目をとめて見ました。アダムは答えました。「私は、あなたの足音を園中で聞いたので、自分が裸であるのを恐れて、身を隠しました。」それまでは、人祖アダムとエバは、神様の前には身を隠す事はなかったのです。他の動物と同じように裸であってもお付き合いできた。禁断の木の実を食べて以来、人類に罪が入ってしまったのです。今は公にお風呂やでは、裸の付き合いが出来ます。生ける真の神と裸のお付き合いができない間柄が、何よりの罪人の徴です。あなたが罪人です。と言われて、なんて失礼な、私は犯罪者ではない。そう思うかもしれませんが、聖書が言う罪とは、(犯罪者は含みますが)、犯罪に至らないが神との疎遠にあることが罪です。

l  「あなたはどこにいるのか」との神の問いかけに、素直にありのままの姿で「わたしはここにおります。」と答えられたらなんと幸せな事でしょうか。今は携帯電話から自分の居場所をどこででも、写真付きで、発信できるスピード時代です。聖書の中に預言者サムエルがいます。イスラエルの神を信じる信仰が風前の灯火のように消えかかった時代に立てられた預言者です。童の時サムエルは祭司エリ先生の下で、神殿に仕えていましたが、「サムエル、サムエル」と神様に3回夜中に呼ばれて、「僕は聞いております。お話しください。」と答えた場面があります。罪が赦され神の子とされた信仰者の姿です。

l  「私に水をください」と申し出たイエス様は実際に渇いた喉を潤したでしょうか。また、町まで買い出しに行って、さあ先生、召し上がって下さいと弟子たちが言った時に、不思議な言葉が返って来ました。「わたしにはあなたがたの知らない食べ物があります」「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです」と。

l  イエス様の御生涯を一言で表した言葉があります。それは「受けることより、与える方が幸いなである(使徒2035)」です。すべてを私どもに与え尽くして、最後には私たちの罪の身代わりとなるために、ご自分のいのちも惜しまずに献げて下さったのがイエス様です。それがこの言葉の背後に隠されているのです。イエス様の御生涯のどのあたりから「贖い、つまり身代わりの十字架」を意識されていただろうか、少なくても伝道を始めた、公生涯に入った残り3年半前には、そのことを意識して、伝道に取り組まれたのです。イエス様にとっての十字架、キリストの弟子となったお互いも、他の人には代わって頂けないような、自分自身の一生涯を通して背負う十字架、それを逃げないで負うことに不思議な神のみ助けが加わるのです。つらく厳しい試練でどうにもならない戦いの中でも、主イエス様が与えて下さる特別な徴として受け取る時、魂を生かす不思議なエネルギーが与えられる。霊の食べ物が備えられているのです。

8月18日・礼拝メモ

ヨハネの福音書4:1626

「真の礼拝者となる」

「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって、父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父がそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:23~24)

<はじめに>

l  夏も後半に入っています。夏の甲子園は昨日でベストエイトが残りました。優勝しなくても8位以内に残ることは大変な頑張り、努力であったことです。彼らは未熟です何が起こるかわからないから、プロ野球よりずっと面白い。地区の予選を勝ち抜いてきたチームの事も報じられた。野球部の部室に突然現れた子猫、可愛い猫をかわいがって居る内に、その猫によって不思議に地区予選が勝ち抜いた。チームが一致団結して、勝利を信じて進むそんな裏話も報じられていました。いくら可愛い猫でも、礼拝の対象者になってしまったら、天地万物の創造者であり、統治者である神は悲しむ。悲しむどころか、聖なるねたみ(神の愛のもう一面)を持って憤りなされ、その御意志をあらわしなされる。ヨハネはその手紙でその締めくくりの言葉として、一言「子どもたち、偶像から自分をまもりなさい(Ⅰヨハネ5:21)」と語っています。

l  今日は真の礼拝者というテーマでお話をまとめました。サマリヤの町のスカルの井戸部で、イエス様はサマリヤの女と会話をしました。5人も夫を変えて見たが、本当に心の通じあえる夫に巡り会えず、今生活している主人は正式にお迎えできた方ではないと言う。心が渇いて、人には知られたくない闇の世界をもちながら、普段はお付き合いしないユダヤ人、しかもラビと思われる疲れた旅人から、「水をいっぱい下さい」と、声をかけられるのです。初めはつっけんどんの会話でしたが、いつの間にかその会話ははずみ、その方が約束されたメシヤであることがわかるのです。人生は出会いで始まる。イエス様との出会いは、他のいかなる人との出会に勝るものだった。

l  この度の神学院での青年たちのリトリートでは、「もう一歩、主に近づく」と言うテーマで集会がもたれました。「イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。(マタイ1423)私たちが一人になる事は、

    問題を乗り超える力が与えられる。②正しい選択をするために。③一人になると神がともにいてくださる事を知ることができる。そして締めくくりの早天では

l  「失敗を恐れずに、もう一歩、主に近づく」と題して「その人は転んでも 倒れ伏すことはない。主がその人の腕を支えておられるからだ。(詩篇37:23~24)」のお言葉が、ペテロの海上歩行から、主がその人の腕を持って支えて下さるからだ。と語られました。

l  神は霊です。私たちの肉体に備わった目、耳、鼻、舌、触覚で触ることではできませんが、私たち自身の霊的本体、神に通じる部分が生き返ることで、目に見えない霊の部分を持って、神と交わることができるのです。また、私たちがイエス・キリストを信じて受け入れますと、聖霊が心に宿り聖霊の宮となるのです。罪赦されて神の国に誕生するのです。ですから聖霊は礼拝者の心に罪を示し、御子の十字架によって罪の赦しを体験させ、さらに大きな神の愛を体験させてくださいます。聖霊は三位一体の神で、私たちの礼拝者の心を整えて導かれるのです。

l  私たちには、神の愛に応える真実さが求められています。愛 忠誠心、服従、献身はいつも自発的に、私たちの側から神に向って献げられるものです。具体的には、説教を通して、賛美を通して、お祈りを通して、献金を通してなされます。

体調を崩して気が進まない時なども、一歩踏み込んで、礼拝に加わることで、他の兄弟姉妹の取り成しを通して、どれだけ助けられ慰められることでしょうか。自分のためだけでなく、相互に作用して、豊かな恵みの礼拝に導かれるのです。

 

8月11日・礼拝メモ

ヨハネの福音書4:1~18

「その水を私に下さい」

彼女はイエスに言った。「主よ。私が渇く事がないように、ここに来なくてもすむようにその水を私に下さい。」・・・「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」

(ヨハネ4:15~16)

<はじめに>お盆のお休みが続きます。今朝は歓迎礼拝です。主の豊かなお招きを受けて頂きたいと思います。連日の猛暑に、手に持つ小型の旋風機がはやっています。汗だくのところに旋風機が風を送って、気化熱で体温を下げるのです。汗でびっしょりになる事も健康の秘訣かも知れない。2時間ぐらい外で作業しますと、全身びっしょ濡れになる。熱中症対策は、こまめに水分補給をして、汗を沢山かくことと信じています。

l  今日は飲み水の話から始まり、人生で最も大切な永遠のいのちの水に進みます。心に潤いのある人生を聖書は示しています。この聖書の箇所はサマリヤの女の人がイエス様と出会う、運命の出会いと言われています。ユダヤ人とサマリヤ人は隣接地にありながら、対抗心、敵対心、反目しあっていた民族です。ユダヤ人はわざとサマリヤの町を迂回して、この場所を避けていました。歴史上、サマリヤ人は、異邦人との混血民族として、純粋なユダヤ人でないと見下された人々でした。しかしイエス様はあえて、サマリヤの町を避けることなく通られました。旅の疲れをいやすために、ヤコブの井戸部で腰を下ろして休んでいた。時刻は丁度12時頃、誰もこんな暑い昼下がりに、水瓶を持って水を汲みには来ません。しかし一人のサマリヤの夫人がやってきたのです。神の子であられたイエス様は、同時に人の子として、肉体をもっていましたから、自然な姿で「わたしに水を飲ませてください」と求めました。

l  「わたしに水を飲ませてください。」と話のきっかけをつかむことで、見事に会話に引き込み、更に興味を誘って、「神の賜、生ける水、先祖ヤコブより偉い」と歯切れよく、大胆に、サマリヤ人を捕らえて行くのです。イエス様は、魚釣りでしたら、手応えを感じたのです。「しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇く事がありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(14節)このサマリヤの女の人の心の乾きをイエス様は良く知っておられました。そして女の人が「主よ。私が渇く事のないように、ここに汲みに来なくてよいように、その水を下さい。」と言うように話を導かれたのです。

l  イエス様は担当直入に、彼女のプライベートな部分に踏み入り、周りに誰もいない会話でしたので、「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい。」と指摘されたのです。サマリヤの女の人は日常茶飯事で水を汲みに来ていたのですが、本当の乾きは真心から信頼できる真の夫、心の清らかな人で、裏切られない人を求めて、5人も夫が現れるのですが、この女性は皆に裏切られてしまったのかも知れません。また、実に魅力的な女性で、世の男性が誘うような人かも知れませんが、その人とのお付き合いで、異性を何回変えても満足することができず人間不振に陥り、心が乾切って、水の瓶をもって来たのです。

l  私たちはイエス様の姿に触れるとき、第1には「自分はいかに汚れた罪人である」かを知ることです。これはとても大切なことです。イエス様抜きの人付き合いは相対的に、自分の弱さや欠点を突かれ、悪知恵や、とげとげしい言葉に傷つくことが多いですが、イエス様の言葉は、そのような悪の概念は全く無いのですから、素直に心を開いて行くことができます。2には「罪を赦して頂いた喜びを持つ」このサマリヤの女性はありのままを告白できた喜び「解放感」でしょうか。それ以上に私たちの罪を帳消しにするため、罪の身代わりとなりました。それがイエス様の生涯です。

l  「主よ、あなたは預言者だとしてお見受けします。」彼女のすべてを知り尽くしてくださっていました。青森で伝道していた頃、「北国に掛ける愛」の伝道フィルムがよく用いられていました。三橋萬利(かずとし)さんと奥様の出会い、献身と結婚、神学校での訓練、多くの苦難を越えて行った伝道生涯、その結実は実に多く。人の胸を打つ愛の証しです。私ども本質的には、全く同じ愛をイエス様から頂いたお互いであるのです。目を高く上げて、主イエス様を仰いで行きましょう。

 

8月4日・礼拝メモ

マルコの福音書9:14~29

「信じます。不信仰な私を助けて下さい。」

イエスは言われた「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなこともできるのです。」するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。「信じます。不信仰な私を助けて下さい。」

<はじめに>暑さの真っ盛りです。暑いと思っている内に秋がやって来ます。信仰者には大きな二つの大切な面があります。主との交わりの世界(祈りと黙想)と現実の様々な戦いのなかで、忍耐強く実践的に信仰を持って生き抜いて行く世界です。ちょうど今日のテキストはその事を物がっています。

l  変貌山の出来事

イエス様は側近の3人の弟子を連れて、高い山に登られた。(夏の白馬岳の登山はわくわくして、山小屋で一泊した。信州の地元出身ですが、夏に雪渓を登る体験は高校生時代が初めてであった。)イエス様は北の方の高い山に登られて、祈っているうちにそのお姿が代わり、白い衣をまとったこの世の人かから、復活して栄光に満ちたお姿に変わって、なんと旧約聖書の代表するモーセとエリヤが現れた。その3者が、イエス様がこれから向かわれる十字架について、話し合っている御姿でした。ペテロは答えた「幕屋を3つ造りましょう、あなたのために、モーセのために、エリヤのために」あまりにもその神々しさの故に、なんと答えたらよいかわからなかったからだと言う。しばらくしてモーセとエリヤは消えて、雲に包まれた中方「これはわたしの愛する子、彼の言うことを聞け」彼らがあたりを見渡すと、自分達と一緒にいるのはイエス様だけで、もはや誰も見えなかった。変貌山の体験でした。これは肉体をとられたイエス様が、一時の間だけでしたが、十字架を飛び越えて、復活の栄光の体に姿代わりをした一時です。主イエス様はこのような御父との交わりの世界を一生涯の歩みの中で示されました。

l  山麓の出来事

イエス様は3人の弟子と共に山道を下り、山麓の実際の生活に戻られた。イエス様の変貌山で時を過ごしている間に、地元で待ち構えていた人達にないが起こったのでしょうか。自分の息子の病気の癒しをお願に来た父親が、留守番をしていた弟子たちにその癒しのお願いをしたのですが、その病気を治していただくことはできませんでした。そこで直接イエス様に取り繕う事になってことが進んで行きました。

l  なぜ弟子たちにはできなかったのでしょうか。主は真剣な祈りと断食によって癒されることを語られた。聖書の中には断食して、体の空腹の中で心を浄め、真剣な祈りに向かわれた器がしばしば描かれています。イエス様も荒野でサタンの誘惑かわすために40日40夜の断食をなさいました。その御力がこのところで表されました。イエス様は通常医者がするように診察をし、その原因を探りながら、父親の願いの言葉を聞きました。「ただ、もし、おできになるのでしたら、わたしをあわれんで、お助け下さい。「もしおできになるなら」、それは謙遜のような言葉ですが、実際はイエス様に期待を持って、お頼りすることを鈍らせてしまっていることを見抜かれて、「できるならば、というのですか、信じる者には、どんなことでもできるのです」とおっしゃられたのです。信仰、信仰という時代から、科学的に最善な治療を受ける方向に人々の目は向いていますが、健全な信仰と科学的な治療法は対立するものではありません。まず主イエス様の手をつけて癒ししてくださることを信じましょう。

l  ベタニヤホームの教えは生きています。イエス様は死後4日を経って、その墓の中から死人ラザロをよみがえらせました。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものである」最初から愛するベタニヤのホームの信仰者にお言葉を送って、信仰の栄光を掛けて試されたのです。イエス様は涙をもって心騒ぎ憤られ、死で終わる人類の悲しみを乗り越え、復活の栄光の希望を与えるために、信仰弱き未熟なものを、病という試みの中で、ともに寄り添って励ましてくださるお方である理解しています。「どうか信じます、不信仰な私を助けて下さい」と主の前に出続けよう。

 

7月28日・礼拝メモ

ルカの福音書12:12~23

今夜、魂(いのち)が取り去れても

「わが魂よ、これから何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め、たべて、飲んで、楽しめ。」しかし神は言われた。『愚か者、おまえの魂(いのち)は、今夜お前から取り去られる。お前が用意した物は、いったい誰の物になるのか。』自分のために蓄えても、神に対してと富まないものはこの通りです。」(ルカ12:19~20)

<はじめに>

l  今年も梅雨が明けて夏本番となります。昨夜も台風が過ぎ去り熱帯夜でした。湘南は海を抱えているので、夏は涼しく、冬は暖かい住みよい場所である事を感謝しましょう。

l  今日のテキストの話は、ガリラヤ伝道の半ばにさしかかったころの出来事です。沢山の群衆が取り巻く中で、「イエス様は空の鳥を見よ、野の百合がどのように育っているか考えよ。」と語りかけつつ、パリサイ人のパン種に気を付けなさいと勧められました。パリサイ人のパン種に警戒するように教えられています。パン種は少しずつ知らないうちに膨らんで来ます。悪の象徴として使われています。それは偽善のことでしょう。初めはたいした事はなくても、段々と心の深みに入り込み、ついには取り替えしのつかない人間性の欠陥になってしまいます。神の御前に正直でなければなりません。

l  偽善の生まれる温床は、人間を恐れる心です。「人を恐れると罠にかかる、しかし主に信頼する者は守られる。(箴言29:25)」偽善を防ぐために、神を恐れ、信頼することを教えています。また神を恐れなさい。「殺した後で、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。」神は、雀一羽にも、私たちの髪の毛一本の数も知って下さり、配慮して下さる御方です。「主は永遠の神、地の果てまで創造された方、疲れることなく、たゆむことなく、その英知は計り知れない(イザヤ40:26)」この神に信頼するのです。神様の前に正直に、神の御使い達の前で認められるような生き方をするのが大切です。裏表のない生き方を勧めています。

l  そのような流れの中に、突然、群衆の中からイエス様は呼び止められて、相続財産の調停を頼まれた。私たちの周りにも、親が残した財産、遺産というもの分配を巡って事が起こる。血を分けた兄弟が突然のようにいがみ合い、憎しみ合い、そしてまるで血で血を洗うような悲しい戦いをくり広げることがあります。そのようなことが決して珍しいことではないのです。あんなに仲の良かった兄弟が、お父さんの死を境に、こんなにもなるなんて信じられない。人は突然の財産を見て、自分を失う、そういう弱さがあります。

l  「先生、私の兄が、父が残した資産を、財産を独り占めしているのです。私の兄弟が資産を分けてくれるように話して下さい。」に対してイエス様は、「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」と答えられました。イエス様はこの貪欲に焦点をあてて、ハッと気付かせて下さったお言葉です。

l  『愚か者、おまえの魂(いのち)は、今夜お前から取り去られる。お前が用意した物は、いったい誰の物になるのか。』自分のために蓄えても、神に対してと富まないものはこの通りです。」ハッと目が覚めるようなお言葉でした。今日は、この地上最後の日かも知れない。その現実に向き合うことがあります。毎年迎える8月は、原爆の投下の記念日と共に日空ジャンボ機の墜落事故を思い出します。その時、家族に遺書を書いた人もいた。私たちはどんな遺書を書けるだろうか。私たち肉体のいのちは突然取り去られることがあります。しかし、神様が下さる永遠のいのちは永遠です。最も大切な宝物であることをどのくらい知って生きているでしょうか。ハッと気付き、大きな祝福の土台を握り直しましょう。

l  「私たちは何もこの世に持ってこなかったし、また、何をも持って出ることもできません。衣食あれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠と、また人を滅びと破滅に沈める、愚かで有害な多くの欲望に陥ります。金銭をあいすることが、あらゆる悪の根だからです。ある人達は金銭を追い求めたために、信仰から迷いでて、多くの苦痛で自分を刺し通しました。」(Ⅰテモテ6:8~10)

 

7月21日・礼拝メモ

ルカの福音書8:1~15節

「種は神の言葉」

「しかし、良い地に落ちたものとは、こういう人達のことです。彼らは立派な良い心でみことばを聞いて、それをしっかり守り、忍耐して実を結びます。」(ルカ8:15)

l  <はじめに>「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩篇119105)「みことばの戸が開くと光が差し 浅はかな者に悟りを与えます。」(119130)真の神を恐れ敬う心を鍛えて行きましょう。119篇は神のお言葉に対して、長い思い巡らしの聖句です。ですから、その要約である19篇を思いだそう。「主からの恐れはきよく とこしえまでも変わらない。主の裁きはまことであり ことごとく正しい。それは 金よりも 多くの純金よりも慕わしく 蜜よりも 蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。」(詩篇19:9~10)実に価値高きお言葉として、聖書を読むことができたら素晴らしい事です。

l  「見よ、その時代が来る―神である主のことばーその時、わたしはこの地に飢饉を送る、パンに飢えるのではない、実に、主の言葉を聞く事の飢饉である。」(アモス8:11)お言葉に対する価値が失われている時代です。神学院の本館玄関、毎週授業開始の前に掃除をします。下駄箱の下にはダンゴムシの死骸があり、クモがそこに巣を作っている。クモの巣を取りながら掃除をしています。団子虫は玄関の隙間から入り込み、その団子虫をクモが食べて巣を作っていつらしい。そしてクモに食べられた団子虫の空だけが沢山残っているのです。サタンは今の時代、神の契約のお言葉を形骸化してしまう。そのような時代かも知れない。もう3040年も前昔の頃、中国に聖書を運ぶツアーがあった。見つかると取り上げられてしまう。そんなスリルの旅行ですが、中国のクリスチャンに聖書を届けたことです。中国の教会は新約聖書だけしか持っていない。牧師は新約聖書から説教をするとか聞かされたことがあった。

l  旧約聖書の死海写本が発見されてから72年に成ります。紙のない時代、羊の皮をなめしてそこに聖書を書き写す事は、気の遠くなるような作業でした。神様の名前「エホバ」を書き写すときは、筆を洗い、身を洗い浄めて、一時一句、間違えないように書き写す。律法学者たちは長年この仕事に当たってきました。今の時代、聖書を手に入れるのは簡単です。あまりにも身近にありすぎで、聖書より他のものの価値が上がり、聖書の価値は形骸化しているような時代かも知れません。

l  4種類の聞き手

1)       路の傍らに落ちた種・・・頑固な心 鈍感な心

鳥が来てついばむ(マタイ伝)踏みつけられる(ルカ伝)悪しき(サタン)者が来て、蒔かれた種を奪う。(マルコ伝)みことばを心より奪い取る。頑固な心で受け付けず、大多数はこのような姿勢で聖書の言葉を眺めています。発芽しないで終わる。

2)石地に落ちた種・・・浅薄な心、

岩の上(マタイ伝)土深からぬにより、日が登りし時、根なき故に枯れる。暫く信じて見る試みの時に退く(ルカ伝)いさぎよく聖書の言葉に食いつくのですが、根を伸ばすとことができない。聖書を読んでいますが上滑りで心に入らなくなってしまう。食いつきがよいのですが、長続きしない。

3)       茨の地に落ちた種・・・窒息した心 焦点の定まらない心

茨の中に(ルカ伝)茨がふさぐ(マタイ伝)世の心使い、財産、様々な世の欲、快楽等で、せっかく発芽して育つのですが実を結ぶ勢力とは成らない。クリスチャンになった人の大部分が陥っているかも知れない。雑草が一段と勢力を増す季節、永遠のいのちを与えてくれる神の言葉を良く考えましょう。

4)       三種類の種は実を結ぶことができませんでした。しかし「良い地に落ちたものとは、こういう人達のことです。彼らは立派な良い心でみことばを聞いて、それをしっかり守り、忍耐して実を結びます。」(ルカ8:15)どうしたらお言葉に集中でき、神のお言葉の価値を取り戻せましょうか。そのヒントとし邪悪な良心(私たちの良心は当てにならない)から、立派な良心を取り戻そう。そのためにヘブル10:19~23を繰り返して暗記して、肌身に付けましょう。あくまでキリストの贖いの十字架に大胆に近付き、塩漬けされた良心を頂きましょう。

7月14日・礼拝メモ

ルカの福音書10:2432

「怒った兄息子」

「だが、おまえの弟は死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか」(ルカ15:32)

<はじめに>月一度の歓迎礼拝を持っています。教会に加わり始めた方々に、行き届いた聖書からのメッセージをしたく願っています。それは一面至難の業でありますが主が語らせてくださるのですから、感謝して唇を開きます。福音書の中にはイエス様が伝道された記事が多く記されています。そこでイエス様がたとえの話に取り組みます。(先週に引き続き放蕩息子のお話です)イエスは答えられた。「あなた方は天の御国の奥義を知ることが許されていますが、あの人たちには赦されていません。」昔の預言者もそうでした。イエス様は直接事実を語るより、身近な自然界の中から、その中に隠された目に見えない本質に目を留められるように、また何とも言えない納得を持って理解して頂くようにと語られた。お話を楽しんでいるようにも受け取られます。

l  一見、兄息子が怒ることは当然のように思われる。その日、兄は一日中汗水を流して働いてきたのである。長男として譲り受けた農場を引き継いで、二代目の主人になるべく、懸命に働き続けてきたのです。育った環境は良し悪しの判断する必要がなく、自分は家の決まりをいつも厳守し、禁欲的な生活に徹して働いて来たのでしょう。この日もおそらく暗くなる寸前まで、田畑を耕し疲れた体に鞭打って、我が家に帰って来たのです。いったいその日何が起こったのでしょうか。まるで一年に一度のお祭り騒ぎのように、家中に明かりがともり、歌が聞こえ、歓声が聞こえ、大騒ぎの夕べでした。僕を呼んで話を聞くと、かって財産をまとめて、意気揚々と家を飛び出したあの弟息子が、久しぶりに帰って来て、お父さんはその再会を喜び、大振る舞いの夕食を始めた所です。なんで一言私に知らせてくれなかったのか、そんなゆとりがないままに、事がすすんでいるのです。

l  兄息子は疲れをいやす暇もなく、従順で素直な心とまでは行かなくても、父親に逆らうことなく生きてきたことが妙に恨めしく、自分の真面目さが、一気に怒りの心に変わり、その怒りが燃え上がったのです。家を飛び出した弟息子は、受け取った財産を放蕩三昧に、きれいに使い果たして、着の身このままで、お腹を空かせ、やせ細って、裸足で帰って来たと言うのです。いつも厳しい面もある父さんですが、一言も責めずに、大宴会を思い立って、その宴会を始めたのです。兄が怒るのは当然でしょう。いくら父親が出て来て、なだめてみても聞く耳を持たなかった。人間的に見たら当然の姿です。

l  しかし、父親は答えています。「だが弟は、死んでいたのが生き返ってきたのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか」、兄に何が欠けていたのだろうか。彼には隣人愛が欠けていた。このたとえの話のきっかけとなったことに戻りますと。兄息子は当時の律法学者の象徴です。彼らは律法を守っていたことに自負があった。しかし、その律法の根本を見失っていた。「神と隣人を心から愛すること」が律法の根本ではなかったか。神と人を愛することは表裏一体である。神を愛することは人を愛することである。貧者や弱者に愛情を注ぐことは、律法遵守である。

l  兄には、神の前に人間はみな等しく罪人であると言う自覚がなかった。罪とは悪事のことではない、もっと根本的に、人間の神を離れ、神に聖さと愛を失い、自我を神として生きている人間の姿である。もし兄がこの神の憐みを知っていたなら、この弟に対して、もっと深い愛と同情を持ったに違いない。

l  兄は自分自身を見失っていた。お父さんのそばで働いていたのですが、いつの間にか喜びを失って惰性で生きていた。ただ家の伝統や、財産や格式を守っていれば、自分は幸せになれると信じていたのだろうか。真面目な人間の代表者です。兄もまた弟と同じく、神の前には心を通わせることなく、死んでいた人間なのです。恵み深い父親は、弟息子も兄息子も、自ら出迎えて赦す姿に目をとめましょう。あなたもわたしも、御父の懐に、飛び込むチャンスが残っているのです。

 

7月7日・礼拝メモ

ルカの福音書10:11~24

「家を飛び出した弟息子」

「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。」こうして彼らは祝宴を始めた。(ルカ15:24)

<はじめに>梅雨空の中、昨夜は打ち上げ花火の音がした。梅雨開けの宣言かと思いつつ、あるいは海開きの合図であった。次には高齢者の行方不明者の捜索願が報ぜられた。身近な現実を教えられたことです。今日の箇所はイエス様が語られた譬の話で、最も有名な箇所です。最高のたとえ話の場面です。

l  このルカ15章は失われたが見つけ出された事が3つ書かれています。最初は100匹の羊中から、一頭が迷い出て失われたものが見いだされ喜び。二番目には10枚の大切な銀貨の一枚をなくし家中を探し回って、見付け出した時のなんともいえない安堵感と喜び。3番目には父親と二人の息子のたとえ話です。最初は家を飛び出した弟息子が登場し、更に家の後を継いだ兄息子の事が書かれています。Ⅰ/100、1/10、1/2と価値が高くなっています。

l  ある人に二人の息子がありました。二人の息子を持つ父親は大富豪の農家の経営者に匹敵する豊かな父親ですが、財産だけでなくあらゆる面で行き届いた理想的な  父親像です。聖書の神は、全世界、いや全宇宙を創られた主です。人間が造り出した神は洪水のよう多く有っても、私たちを造られた神は、だだ一人です。そこに子がいたら、その子を産んで下さった父母がいるように、私たちが存在していることは私たちを造られた神がそこにいるのです。すでに存在する永遠の神です。豊かな財産を持った御父、雇い人が大勢いる大富豪の父親を想像できるのです。「あなたの神は小さすぎる」と言う説教をした牧師がいました。この神は、80才になったモーセに声をかけて、奴隷であった同胞のイスラエルの民を救い出し、広大な荒野ので40年の旅のリーダーとするために、天から声をかけられた御方です。それが出エジプト3章の「燃える芝の」の体験です。「私はある。すでにそこに存在する。」と言ってご自身を示されました。天地の創造、万物の支配者が、この物語ではここでは二人の息子を持つお父さんとして、豊かに描かれているのです。

l  弟息子(放蕩息子)が、いわゆる生前分与(贈与)と言う権利を要求してお金を作り、家を飛び出してしまった。遠い所とありますから外国と思われます。ユダヤの田舎町と比べて人も多く、誘惑も大きかったに違いない。たちまち放蕩に身を持ち崩して、お金を使い果たしてしまった。それに追い打ちをかけるように飢餓が起こった。貧困のどん底に落ちた彼は、豚の餌まで食べたいと思った。この時彼が気が付いたことが3つあった。

    欲望の果てには何も残らなかったと言うことである。あれだけあったお金もあっけなく消えた。寂しさだけが残った。

    人々の冷たさである。彼のおかげで随分得をした人がいたはずに違いない。だがお金は人の心をつなぎとめるものではなかった。

    大飢饉である。自然の驚異の前に、とても人間はもろくて弱い存在であることを痛感させられたことでしょう。そして創造主である神の前に、恐れおののく自分を発見したことです。これらが、彼が「我に返った」原因と考えられる。

l  一方父親は、毎日家の前に立ち、息子の帰りを期待して、遠くを眺めていた。ある日の事、彼は自分の目を疑った。あれは息子ではないか、やせ細っているが、確かに息子だ。道を力なくとぼとぼと歩いてくる息子を見た父親は、自分の方から駆け寄って、息子を抱きしめるのである。息子は必死になって、父親に謝罪の言葉を言った。父親の口から出た言葉は、勘当でも裁きのことばでもない。僕たちに「最上の着物を着せ、指輪を与え、靴を履かせなさい。」であった。また祝宴を用意せよと言うのである。

      着物を着せることは…父親の赦しを意味し、一言も攻めない。そこにはイエス   様の十字架の赦しがあるからです。

      指輪を与えることは…息子としての資格を回復することを示します。靴を履かせることは、新しい生活の始を宣言することです。

      さらに祝宴をすることは、一人の息子が帰ったことは、家族・友人・知人全体の喜びである事を意味しています。

l  この物語は罪を犯した人間が、罪赦されて(キリストの十字架の血潮に覆われ)、回心する物語です。イエスを信じる時、あなたもこの救いに与かり、神の赦しを得ることができます。また神の子の資格を得て、新しい人生のスタートをさせて頂くことが出来る事のです。


6月30日・礼拝メモ

ヨハネの福音書10:1~18

「良き牧者なるキリスト」

「羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行きます。彼の声を知っているからです。」(ヨハネ10:3~4)

<はじめに>

聖書の舞台となったパレスチナでは牧畜業が中心でした。ですから旧・新約聖書の両方に羊と羊飼いの関係が、目に見えない霊なる神とその御方に導かれる人間の関係として、例えられている事です。7章の仮庵の祭りから話が続きます。7章では生ける川のように流れ下る聖霊の預言を、8章で姦淫の女と指導者たちの罪深さ、9章では、生まれながら目の不自由な人の開眼とその魂の救いについて、10章では、イエスを信じる人が、ユダヤ社会から追放されますが、主は真の牧者として、主イエス様は、羊のために惜しみなくご自分を与えてくださることを物語っています。主は十字架に向かわれますが、それは私たちの罪のために命を捨てることを、つまり御子の自発的な愛を物語る場面でもあります。

l  羊に譬えられた人間は、羊のように集団で生活していて、群れからはぐれては生きて行けない存在です。山羊は遠く置き去りにされても元の住み家に帰る事が出来るとか聞いたことがあります。しかし羊は迷い出たら元の場所に戻れない、どうしても羊飼がついていてくれなければ身の安全が危うい生き物です。人間も羊飼いなる真の神を必要としているのです。(親子で山に入り夢中でワラビを取っている内に迷子になり、父親が子供を探した父親と見つかった時に抱きしめてくれた父親の存在)

l  最初にこの関係を明らかにしてしている人物は、創世記に登場したヤコブです。ヨセフの二人の子供、マナセとエフライムに、手を交差して置き祝福した時に「わたしの先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神よ。今日のこの日まで、ずーっと私の羊飼いであられた神よ。すべての禍から私を贖われたみ使いが、この子供たちを祝福してくださいますように。(創世記48:15)」それから時代はBC1000年、ダビデ王がイスラエルの国の王様になります。ダビデの宝庫と言われる詩篇の中で、最も愛される御言葉として詩篇23篇があります。その冒頭は「主は私の羊飼い、私は乏しいことがありません。」です。8人兄弟の末の子として生まれたダビデは、野原で羊飼いをしながら青少年時代をすごし、晩年に至ってはイスラエルの王として権力を握った時も、神の御前に、自分は羊飼いに養われたている羊であることをとらえ、神はすべての供給者であることを、本能的に知リ得た信仰者でした。

l  羊の名を呼んで引き出す。ユダヤの牧羊者は、羊に名前を付けて呼んでいた。その名を呼んで、群れの中の羊一匹も、一員として認めて愛を注いで下さるのです。イエス様も弟子達を、名前を呼んで導かれた事が記されています。私たちも神様に自分の名前を呼ばれて導かれることです。その事は何にも代えがたい平安と喜びなのです。

l  聖書の中には悪い牧者が登場します。「神である主はこう言われる。わざわいだ。自分を養っているイスラエルの牧者たち。牧者が養わなければならないのは羊ではないか。あなたは脂肪を食べ、羊の毛をまとい、肥えた羊を屠るが、羊は養わない。弱った羊を強めず、病気の者を癒さず、傷ついた者を介抱せず、追いやられた者を連れ戻さず、失われた者を探さず、かえって力ずくで、しかも過酷な仕方で彼らを支配した。」(エゼキエル書34:2~4)当時の指導者に向かっては痛烈な思いをぶつけているのです。

l  主は良き牧者です。羊に先だって行きます。ですから私たちが進むべき道にはイエス様の足跡があるのです。特に苦難や試練の只中にあって、イエス様がすでに体験済みの道であることを知ることは勝利です。その通りに主が試練の中で私たちを、誰よりも良く知り、必要な脱出へ道の導かれるのです。罪を他にしてすべての事を私たちと同様に試みられた主ですから。私たちは「イエス様の声を知っている」います。真の信仰者は、自分の考え、判断、経験、計画がいつも最善とは限らないことを知って、絶えず主の御心を伺うのです。良き牧者に対し、信頼して良き羊になりましょう。「心を尽くして主に寄り頼め、自分の悟りに頼るな。あなたの行く道において、主を知れ、主はあなたの行く道をまっすぐにされる(箴言3:5-6)」。

6月23日・礼拝メモ

マタイの福音書7:114「狭き門から入りなさい」

「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道はなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」(マタイ 7:1314

<はじめに>

先週は上半期の特別集会でした。教会には初めての方もお迎えでき感謝でした。昨日は天に召

l  天国に入るためには何よりもまず、身軽になって、障害物を少しでも減らさなければなりません。引っ越しの時、沢山の身の回りのもので、集めた数々の品物も、全部整理して、持ち物をえり分けなければなりませんが、私たちの天の御国への持参品はただ一つです。神を信じて、心からより頼む信仰姿勢です。まるで幼子のように天真爛漫で、心配したり、くよくよと取り乱すのではなく、単純に信じて委ねることです。「それが出来ないから困るのです」と、いやその通りですが、出来るのです。だれでもが心を神の御前に注ぎだし、祈ることは、その気になれば道が開かれ出来るのです。昨夜は疲れ切って週報を折る事すら出来ないぐらいでしたが、深い眠に導いて頂きました。睡眠は神からの賜物で、障害物を取り除けば、自然と眠りに導かれます。頭を悩ませている問題や課題も、一日の労苦は、一日で十分です、委ねて眠れることができたら幸せです。神様が用意して下さっている場所は、この世に居ながら、天国の前味わいをさせて頂ける不思議な安息の場所です。いっさいの取り越し苦労から解放されて、心と魂を救い主に結びつける訓練をしたいものです。

l  今日は特別集会を終わりましたので、狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道はなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」(マタイ 7:1314)の言葉に目をとめることにします。

l  滅びに至る入口、それは大きな・広い門、そこから多くの人が進んで入って行く道です。それは別に信仰を持たなくても、十分に人生を生きて行くことがでるでしょう。世の中一般の見解に分り易い表現です。一見大きく広い道の入り口に見える。誰でもが簡単に手に入る、言い換えれば自我という人間の欲望のままに生きている人生です。滅びに通じる道は広々としています。多くの人が入って行きます。そこから入る人には、何の抵抗もありません。人々との摩擦もありません、世間に合わせ、世間から憎まれず、むしろ賞賛の声さえ上がる門です。広い門には、人々は吸い込まれるように流されて行きます。人間の所有欲、金銭の欲、名誉の欲、権勢力、快楽など、あらゆる欲望を駆り立てて満足させてくれます。肉の心を喜ばせ、我意を押し通し、この世を愛する門です。それが広い門です。

l  狭い門から入りなさい。今日は狭い門と言われた天国への道から。「入りなさい。」とイエス様は、耳を傾ける人々に、決断を迫って命じています。イエス様は哀れみに満ちたまなざし、権威ある唇を持って、両手を広げて、抱きかかえるような愛の心を傾けて、二者択一を迫っておられます。一見狭い道ですが、イエス様はご自分の身代わりの十字架と、復活の栄光の体をもって、いのちに至る道を示してくださいました。狭さは、自分の栄光・栄誉の実現、つまり自己実現の取り組みとは違います。キリストの示して下さった、キリストの愛に習う道です。神の神聖さのゆえに。細い道かもしれませんが、真の神を信じて、踏み出すことの大切さを現しています。このいのちの門は、決して集団で入るのではなく、良心に光を受けて決断をもって、各自が信仰も持って、踏み入る道です。

6月16日・礼拝メモ

<ペンテコステ、山田隆師上半期特伝>

ローマ人への手紙8:28~30節

「神の愛を信じて」

「神を愛する人たち。すなわち、神のご計画に従って召された人たちのためには、すべ他の事がともに働いて益となることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)

<はじめに>今日はお招きを頂き本当に感謝します。徳竹先生とは小松教会の特別集会にお招きを頂いて以来20年ぶりになります。福島県相馬市に誕生し、高校を卒業してから、上京し自動車整備工となりました。その時、救い主イエス・キリストの映画を見て感動し、この方の素晴らしさに触れて、心を悔い改めて、信仰に立つことが出来ました。それから都心にあった丸の内教会(当教団創設者、蔦田二雄師)の教会に導かれました。献身をして牧師になり50年以上、福音の為に労することになりました。人は救われる必要がある事を、自分の受けた体験を通してそのように思い献身に導かれました。都会の大教会ではなく、地方の教会に遣わして下さいとのことで、奈良県の大和高田市に遣わされたこともありました。現在の宇都宮教会では、45年間奉仕させて頂いています。

l  蔦田二雄師のもとでカバン持ちをしながら、講壇に仕えるなら、それで生命を使い果たしても構わないではないかと教えられ。今にち引退される先生が多い中で、力の出せる限り牧師として、主に仕えます。地方に奉仕させて頂きますと、青年達が都会に出て行く、せっかく信仰に導かれ、教会で育ち、これから教会の奉仕を担う青年達を都心に送りだすことはつらいことです。一向に地方の教会は伸び悩んでいることも体験しました。その中から献身して、今は伝道者になっている器を思い出すと教会に対する見方も変わり、感謝の思いも大きいです。

l  会堂問題も乗り越えてききました。他に建っている不要な建物を分解し、それを運んで、会堂を建ててみようかと取り組んだこともありましたが、途中、教会員の祈りの中から良き大工さん(建築屋)が紹介されて、現在の土地に、新しい会堂が建つことが出来ました。

l  昨年インドネシヤから二人の青年(大学生)が導かれています。かって、この教会から献身された器方も、その青年達の大学から教会に来られて、献身された方々です。私はしばらく丸の内、神学院で蔦田先生のカバン持ちをしながら仕えてきました。牧師と言う仕事は人に仕える仕事です。人に踏まれるような、雑巾のように役立つ面もあります。私たちを救って下さったイエス様は、そのように人に仕えて下さったことです。最初は腹が立つのです。でもその中で、あなたの隣人を愛することを、イエス様から学んで行くのです。神様との会見の場所を持っていますか。押入れの片隅のようなところでも、聖書を開き、お祈りをして、生きた神様と交われるのですから感謝です。そのような場所がなくて、生き生きとした奉仕は生まれてこないのです。

l  一見穏やかに見える時代ですが、人殺しや性的な堕落、取り締まるべき立場の人がそのような罪の中に生きているのです。誰もそのような問題の解決に、聖書の中心である、罪からの救いを伝えてくれません。昔も今も人の心は変わりありませ。世の中は、効率的に生きる社会で進んでいます。クリスチャンの生き様はあまり歓迎されませんが、大切な使命を持っているのです。人物評価よりも効率を考える社会ですが、くじけないで聖書の信仰に生きて、人格を磨いて行くことは、究極的な素晴らしい結果的に結び付くことです。

l  私共は今の時代にあって、神の目から見たら大きな勘違いをしているかもしれません。ノーベル賞に輝く器の中にも、人間の知識が優先して、その人の発言があたかも預言者のことばのように取られてしまう。この世界は最初から、すべてを創造し、収めておられる神の創造の宇宙です。御前に、へりくだって、人格が砕かれ、降参した人間でないと、大きなつまずきをもたらす結果になりはしないか。父と子と聖霊の三位一体の神が創造された美しい神秘な大自然を、今の時代は創造の神への畏敬が失われている時代なのではないでしょうか。時代の指導者、科学者のことばに迷わされてはなりません。イエス様の山上の垂訓にあるように、隣人に対して心の貧しい人、悲しむ人、柔和な人、義に飢え渇き、憐みの豊かな人として生きていることが、キリストがあなたの中に生きている証拠ではないでしょうか。

l  ある花屋さんの証、今の花屋さんは個人のお店で続けてゆく事が難しい時代です。儲かるどころか、損をするような商売ですが続けている中で。その人の心の中には「すべてのものの背後にあり、いつも美しい花を咲かせて、生きて働く神の恵みを信じて」心が変わったのです。その表情が、そばに立っていた私にも、はっきりとわかり、驚くばかりでした。「神を愛する人たち。すなわち、神のご計画に従って召された人たちのためには、すべ他の事がともに働いて益となることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)

 

6月9日・礼拝メモ

エゼキエル47:112節

「神殿から湧き出るいのちの川」

「この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、その水が良くなるからである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。」(エゼキエル47:9)

<はじめに>ペンテコステの聖日を迎えました。「聖霊があなた方の上に望まれると、あなた方は力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらには地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒の働き1:8)この聖霊の力は第一に個人的に神の救い、魂の救いをもたらす力です。人の助けばかり期待している私たちが、神の力をあてにする第一歩を踏み抱いたのが救いの体験です。人の助けに勝る神の助けは底知れない深みを持つ偉大な力です。その事を信じることが出来ますか。第二には聖霊の力は教会をきよめ活性化する力です。神の教会の底力がむなしく、失いかけてます。今の時代に本当に必要な力は経済力でもなく、軍事力でもなく、真の神を信じて祈る教会の底力です。あなたも教会の祈りの力に加わって頂きたい。よろしくお願い致します。第三に聖霊の力は世界に向かって宣教の働きを担う力となります。どの時代も宣教に安易な時代はありませんでした、どの時代も生き抜いた人たちが喜びと、感謝の証をしてきたのは事実です。その人の中で、命がけの宣教に情熱を燃やされた人たちが、その人生が勝利に導かれて来たのは本当の事です。今の時代に必要なことは、積み上げた薪(石炭)に火が付くことです。聖霊が炎のごとく天からご降臨下さったのがペンテコステの記念日でした。

l  ペンテコステは聖霊の就任式。

3つの印が伴って、新しい時代の幕開けとなったことが使徒の働きの2章に書かれています。祈りに集まっていた人達の上に、第一に、激しい風の吹き来る如き響きが起こった。その音は突然やって来て、直ちに、最高潮に達したようである。教会と世界に対して、内的、神秘的、霊的な力を示している。聖霊の強い熱心さが現れています。第二に、弟子達の上に留まった、火のように分かれた舌が 弟子達の上に留まった、元は一つからホーク状に分かれて、集まっていた弟子達一人一人の上に留まって、彼らの魂を貫通して行きました。それは旧約のモーセがシナイ山で律法を授かった時に、主は炎の中に下った有様のようでした。聖霊の働きは、きよめ、力付け、変貌をもたらす神的パワーの象徴です。第三に、他国の言葉の賜です。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろな言葉で話し出した。この印は、聖霊の実際的な働きの開始を意味しています。理解することのできる自分の国の言葉で、メッセージを聞くことができたのです。言葉を混乱させる(創世記11章バベルの塔)ことも、言葉の壁を解くこともできるのが聖霊です。今日はその記念日を迎えています。

l  エゼキエルは祭司から預言者に召された器です。神殿と神殿に仕える祭司の務めを十分に理解できる器でした。先週は聖霊の働きが川の流れのように、私たちの心に注ぎ込まれる、神の祝福が先週は同じエゼキエル書の37章から枯骨の谷の話をさせていただきました。散乱している枯れ果てた骨が散らばっていた。誰も葬ってやることもなく野ざらし骨が生き返る幻でした。しかし時に、神様の方からエゼキエルに語りかけた第二の幻は、今日は聖霊が川のように砂漠に向かって流れ下る幻です。

l  ところで聖霊の川は聖書全巻を通して流れている。エデンの園でも、ヨハネ黙示録22章の新天新地でも、そして幻の神殿と呼ばれた預言者エゼキエルが見た幻の神殿でも、豊かないのちの川が流れているのです。彼の見た幻の川は1000キュビト、約500mを計るごとに、小川、渓流、泳ぎのできる人でないと渡れない河川、そして海に注がれることが、瞬く間に展開する幻です。神殿の基から東に向かって流れていた。東から陽が登り、まばゆい反射がされる川の幻です。

l  旧約の神殿では、2000年の歴史をかけて動物のいのちが献げられて来ました。しかし新約の恵みはただ一回の、ただ一人の神の御子のいのちが献げられて、旧約の儀式に終止符が打たれ、信仰によって神の御子のいのちを、死にたる心に注ぎ込み、その周りには川の両岸に流れ込む死海に命がみなぎる幻です。幻の神殿、その内容は詳しく、寧に、良くもこれまで念入りに調べた尽くしたものかと思うほどのです。無味乾燥な聖書の地味な部分ですが、忍耐深く読み進みますと、このいのちの川にお目にかかります。あなたもこのいのちの川を必要としていませんか。

 

6月2日・礼拝メモ

エゼキエル37:114

「枯骨の谷を行き巡って」

主は私に言われた。「人の子よ、これらの骨は生き変えることができるだろうか。」私は答えた。「神、主よ、あなたはよくご存じです。」(エゼキエル37:3」

<はじめに>6月に入りました。半年間守られたことを心から主に感謝します。教会は病と老いとで、戦いの中に直面しています。私たち導いて下さる神様は生きて働いておられます。目を高く上げて、偉大な主イエス・キリストの恵みの器に、それぞれが成長させて頂きましょう。いよいよ来週はペンテコステ聖日を迎えます。藤沢の借家時代は、大きな声で賛美を歌うと二階から「うるさい、静かにしろ」と足踏みの音がして、文句を付けられたと聞いています。今は大きな声は出して賛美を歌うことができます。病は気からと言う言葉があります。まずは主にお願いしましょう。神様あなたはわたしの病むのをご存じです。どうか私の体に触れていやして下さい。まだまだ、この世に旅路は長いのです。使命が残っています。助けて下さい。早天の時間、朝日に輝くステンドグラスを眺めていたら、再びこの場所で早天は持てるのではないだろうかと希望が出て来ました。

l  今日はエゼキエル書からメッセージです。枯骨の谷、骨は腐れる部分のない状態ですが、その骨が納骨されたのではなく、野ざらしで散乱している姿です。私たちはよく、火葬場で亡骸がお骨に変わった時は、誰しもが、この人の人生は終わったこと否応なしに認める厳粛な時です。

l  預言者エゼキエルは聖霊の預言者と言われます。イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、そしてダニエルと預言者が登場します。彼らはその心に神様からの預言の言葉を授かりました。イザヤとエレミヤは、御父と御子の預言者、(一般的にイザヤは御子、御父はエレミヤ、その使命を逆にしてイザヤは御父、イエス様の姿はエレミヤにていることか御父と考える人もいます)しかし、例外なくエゼキエルは聖霊の預言者として呼ばれています。それは聖霊の働きが顕著に記されているからです。この枯骨の記事も「聖霊に預言せよ」と命じられています、聖書の中でも有名な箇所であります。

l  神様は預言者エゼキエルの思いの中から信仰を引き出すために、声をかけられました。「人の子よ、これらの骨は生き変えることができるだろうか。」それに対して、エゼキエルは神様に期待して答えました。「神、主よ、あなたはよくご存じです。」エゼキエルはが祖国から離れて、連れ去られたバビロンの都の傍ら、ケバル川のほとりに、捕囚の民とともに暮らしていました。彼の偉大な預言者としての霊の力は、エゼキエル第一章の不思議な4つの顔を持つ天使(生き物)の幻を見たことによります。

l  主は私に言われた。「これらの骨に預言せよ」干からびた骨よ、主の言葉を聞け。(4節)この有名な干からびた骨が、再び会い連なり、筋が付き、肉が生じ、皮膚がその上を覆っていくという強烈な幻です。これは死人の復活のありさまの描写とも思われる。枯れ果てた状態から、もう一度、魂のよみがえり、心のよみがえり、実際に希望を失っていた彼ら自身が、70年後に祖国に立ち返ること。彼らの姿からは想像もつきませんでした。でも神様は時代を動かし、国のリーダを変え、イスラエルの国は再建が許されたのです。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」マタイ1926に記されている言葉の通りです。あるお金も血の青年、しかも品行公正、立法を守る青年に、イエス様は「貧しい人に施せ、そして私について来なさい」と命じられた時、イエス様について行くことはできず立ち去ります「金持ちが救われるのは、ラクダが針の孔をくぐることより難しい」しかし神には、不可能を可能と変えてくださるのです。

l  そのとき、主は言われた。「息に預言せよ。人の子よ、預言してその息に言え。『神である主はこう言われる。息よ、四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹き付けて、彼らを生き返らせよ』」(v9)聖霊に向かって預言せよと言われているのです。息、風、霊は同じ語源で、聖霊を証しすることです。そして、この御霊が死にたるものを、生かしてくださっているのです。たとえ人間的な組織が整えられ、機構を整備し、規律を正しても、その中に息が吹き入れられなければリバイバルは起こらない。「息よ、四方から吹いてこい」そうです。エゼキエル書を解くカギの言葉は「主の栄光」です。はじめの11章までには主の栄光は12回出てくる。その後43章までは出てきません、再び43章で出てくる.。幻の神殿、神の栄光が満ちていたことでしょう。途絶えていた聖霊が再び、顕著に働き始められたのです。聖霊に心を明け渡し、聖霊に満たされよう。

 

                                                                             

5月26日・礼拝メモ

ヨハネの福音書16:1~16節

「罪・義・裁きについての見解とは」

「その方が来ると、罪について、義について、裁きについて、世の誤りを明らかになさいます。(ヨハネ16:7)」

<はじめに>急に夏日に変わり気温が高くなりました。神学院ではさつきからバラが咲き始めました。バラは一年中咲きますが、春先のばらの花は最高です。先週は咲き始めた枝を持ってきましたが、今日は残りの部分です。神学院の南側の斜面を「バラ園にする」と取り組んだ神学生がいました、放課後こまめに手入れをして、バラを育てていました。今日もバラの花に勝る救い主イエス様の麗しさ見つめて参ります。今日の箇所は大変有名な言葉です。そしてその意味している内容は大きくて広いものです。主イエス様が後に遣わされる聖霊のこの世に対する働きを、三つにまとめてくださったからです。それは罪の問題、救いの問題、裁きの問題です。

第一に、罪について

聖霊は罪を認識させてくださいます。罪とは神様の方から見たら、私たちが的を外してしまうことです。かって若いころ、ゴルフ場でアルバイトをしていた時がありました。冬はスキー場、夏はその斜面を生かしてゴルフ場に代わる、平地でない山岳ゴルフ場でした。そのコースの中で、ホールインワンが出そうな短いコースがあった。その高台から打ち下ろして、芝生のグリーンに乗せることはベテランの人でしたら可能でありますが、いまだにホールインワンを体験したことはなかったのです。ところがある日、若いオーナーが、ホールインワンの快挙を達成しました。そのニュースは一気に町に伝わりました。後から新聞記者や報道陣がやってきて、後からそのホームを写真に収めると言うのです。いま考えてみると、本当かどうかわからないような出来事でしたが、皆さん満足していました。

罪とは、神の愛を信じて受け入れない心の頑なさです、そこで神様はかけがいのない御子イエス・キリストを送って下さいました。神が私たちを愛していることがわかるためにです。罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反していることです。イエス様はモーセの十戒を見事に要約して下さりました。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知力を尽くして、あなたの神、」主を愛しなさい。(第一の戒め)」「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい(第二の戒め)」そしてそのように地上に罪なき愛なる御方として歩まれたのがイエス様です。ですからこのイエス様を信じて、受け入れることは人生の的を得た生き方なのです。罪とは素直にキリストの愛を受け入れないことです。人の心は御子を素直に信じ受け入れない罪の性質があります。

第二 救いについて

   聖霊は罪を認識させて下さるだけでなく、私たちの救いのために、キリストの身代わりの十字架を示して下さいます。「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去ってゆくことは、あなた方に益になるのです。」「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなた方はわたしを見なくなるからです。」イエス様はこれから十字架に向かわれます。まだ身代わりの死を受けようとしてします。肉体を通して臨在を現したイエス様が、弟子たちの肉の目に見えるイエス様から、復活体によみがえられたイエス様を信じる信仰へと導かれるのです。聖霊は弟子たちの心に罪が赦されたこと、神の子生まれ変わったことを認識させて下さるのです。罪のゆえに悲しみに沈み込んしまうのではなく、罪赦された喜びに満たして下さるのです。

第三 裁きについて

「そして、人間には、一度死ぬこと死後に裁きを受けることが定まっている。」(へブル9:27)。と書かれています。人間社会は真の神だけでなく、御父なる神に真っ向から敵対するサタンの支配のもとにあることも記されています。サタンは私たちを誘って、愛なる御父を疑わせて、天国への約束を空しいもののように思わせます。キリストの十字架は、そのようなサタンの巧妙な悪だくみをも覆して、信じ者は誰でも、その人のすべての罪を赦して下さいます。神の裁きの御前に立つ時、私たちの側に立って、ご自分のいのちを掛けた十字架を持って、弁護して下さるのです。天国は罪赦された人たちが、御父御子をほめたたえ、喜び平和に満ちているところです。聖霊はその事を信じる私たちに教えて下さるのです。

 

5月19日・礼拝メモ

ヨハネの福音書15:1~17節

「主にとどまるとは」

「わたしにとどなりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結びことは出来ないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。(ヨハネ15:4)」

はじめに

l  今日は神学院創立記念、70周年を迎えての記念礼拝を持ちます。丸の内のビルの一室から出発して、浦和、横浜の現在に場所が移りました。21日の午前の式典には近隣の教会の信徒の方々も参加してください。とのお招きがあります。

l  神学院の森がずいぶん変わりました。緑地保全地域ですが、住宅地がすぐソバまで接近しています。学院の雰囲気は街の中、しかも緑に囲まれて環境的に整えられた場所となりました。古い建物は改築され、リニュウアルされてベテルハウスが出来ました。創世記の族長ヤコブが信仰に導かれたベテルと言う土地の名前を取ってベテルハウス、研修センターとして備えられました。隣では商大の校舎が、学生の減少で、一ヶ月以上をかけて、解体作業がされています。旧女子寮は解体されること無く、新しく生まれ変わりました。今年から、高台の隣接地がレンターカーの会社に売却されて、沢山の車の保管場所となりました。先日その社長さんが「必要とあればいつでもお貸しできます。今後ともよろしく」と、挨拶に来られました。これからの伝道に備えられているのかもしれません。

l  今日は素朴なイエス様のブドウの木と枝のたとえから、イエス様の教えに目をとめてみます。ここには「とどまる」と言う言葉が12回出てくる。その内容を3つにまとめました。

l  第一にキリストのことばにとどまる。

「わたしのことばがあなたがたにとどまっているならなんでもほしいものを求めなさい。そうすればかなえられます(7節)。」イエスの言葉の中にとどまることです。今日は詩篇27篇を交読しました。ダビデの窮地を救ってくださった神の言葉をもって主を仰ぎました。「主は私の光 私の救い。だれを私は恐れよう。主は私のいのちの砦。誰を私は怖がろう。(1節)」息子のアビシャロムの反逆にあったと時だと推測します。敵は愛する自分の子、自分の愛する子が敵となって攻撃を仕掛けて、ダビデは側近の者たちと着の身着のままで都落ちをして行くのです。周りからヤジられて、好き放題のことを言われて、難を逃れて行きます。ダビデは好き好んで波乱万丈の生涯を送ったわけではありませんが、神が一等星のように、輝くために、たくさんの罪の泥沼を潜り抜けて、その罪を許されて、神の器に練り上げられたことです。この様な窮地の中で彼の目の付け所は「私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを、主の麗しさに目を注ぎ、その宮で思いを巡らすために。(27:4)このことを新約的にはキリストにとどまり続けることでしょう。ダビデはいつも、彼の神の前に立ち生えることが許される器であった。彼のように勇気を与えて頂こう。

l  第二にキリストの愛の中にとどまる。

「父がわたしを愛したように、わたしもあなた方を愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。(9節)」です。もう一度豊かなブドウ園の農場を思い浮かべてみましょう。農夫は御父です。思い切って刈込をなされる。イエス様はブドウの幹として枝を支えていますが、救い主イエス様は真のブドウの木(へブル人は旧約聖書の良き模範者とはなりえませんでした)ですから、あえて主ご自身は、真のブドウの木と言われたのです。私たちも、キリストの十字架と復活、永遠にかかわることを第一優先にして、スリムになって、信仰の高嶺をめざそうではないか。

l  第三にキリストの戒めの中にとどまる。

「わたしの戒めにとどまりなさい。(10節)」です。互いに愛し合うことです。私たちお互いにどのような関係を持つべきでしょうか。互いに愛し合うことは人体に例えると、全身の細胞が脳の指令に対して正常な反応を示すことです。それ以外は異常であり、がん細胞的な危険をもっています。「互いに」と言う言葉を集めてみました。<否定的に>3つ、互いに裁き合う、互いに偽りを言う、互いに悪口を言ってはならない。このようなことを続けると滅びてしまう。

<肯定的に>8つ、互いに赦し合う、互いに戒め合う、互いに励まし合う、互いに徳を立て上げる、互いに受け入れる、互いに尊敬すべきです。ああ麗しい品性的と、また伝道の実を豊かに結ばせて頂きましょう。

 

5月12日・礼拝メモ

ヨハネの福音書14:15~24節

「助け主、真理の御霊」

「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与え下さり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにして下さいます。この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなた方はこの方を知っています。この方はあなた方とともにおられ、また、あなた方の内におられるようになるのです。」(ヨハネ14:16~17)

<はじめに>

l  今日は母の日、子供を慈しむ母がどの家庭にいることは何と幸せなことでしょうか。母が自分の産んだ子供に対して注ぐ愛は、自分のいのちを注ぎ出し、惜しみなく与える愛です。それは惜しみなく注いで下さった神の愛とよく似ています。キリスト様が私たちに注いで下さった愛はそういう種類の愛です。私たちが主キリストを信じて救われますと、イエス様はご自分の子と認知して下さいます。そして、その生んだ我が子のために、母親の愛のように、更に量的には比べ物にならないほど、世界中の信仰者に対して、普遍的な犠牲的な愛を示されるのです。勿論信じない時も注がれてきたのですが、実は気が付かなかっただけです。神(御父)と御子の交わりの中に、加わらせた頂いた事、御父と親子の関係を結ばせて頂くのが信仰者の救いの体験であるからです。

l  「神は愛です。ですから私たちは互いに愛し合いましょう。」とは主イエス様が私たちに語って下さった事です。この愛は誰にも必要不可ないのちです。この世に生まれた幼子は勿論、成長盛りの中高生や青年達も、働き盛りの子育て真っ最中のお父さんお母さんにも、年老いて寂しくなって行く高齢者にも、この愛は必要不可欠ないのちです。キリストは神の独特無比の独子です。御子であるキリストが信頼と愛を込めて「わが父よ、アバ父よ」、と祈りの中でお呼びしている方は、唯一の神です。全世界のすべての造られたものを相手にして、目にみえるもの、目に見えないも、すべてを造られた天地創造、万物の総支配者、維持者であられる神を、御子キリストは、天の父とお呼びしています。更に、いのち溢れた戒めを語っています。「わたしはあなた方に新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたもわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(13:34~35)」

l  今日の聖書の箇所はイエス様が数時間後に、十字架に架らけれる直前の晩餐会です。もう一人の助け主<パラクレートス>「助言者、とりなす者、弁護者、激励者、援助者」を約束して下さいました。子供が成長して成人に至るまで、母親は生きている事でしょう。普通はそのように愛なる神は配慮してくださいます。でも時としてそのように行かないハプニングがおこります。事故や病気でやむなく幼子を残してこの世を去らなければならないこともあります。でもそのような時に、母親に変わてくれる方が顕れたら、本当に助かります。イエス様がご自身に代わる、ご自身とは別の助け主をここで紹介しているのです。十字架に向かわれるイエス様は、子供(信仰者)を置き去りにして世を去ることはできません、自分と同質の自分に代わる助け主を、紹介してくださっているのがこの場所です。

l  その御方は真理の御霊です。キリストの御霊です。救い主イエス・キリストのうちに住んでくださっていた御霊です。イエス様の誕生の時も、処女マリヤに通して、この世に誕生させて下さったのは御霊です。ヨルダン川で洗礼を受けた時も、聖霊は鳩の形をとって現われて下さいました。十字架で私たちの罪の身代わりの死を成し遂げ、死にて葬られ、死人の中から復活されたのも。よみがえらせてくださったのも御霊です。終始イエス様と共に働き続けた聖霊が、今度は、残される私たちの心に住んでくださり、真理を解き明かし、イエス様が救い主である事実を、証出来るように、ペンテコステの恵みを下さったのも聖霊です。弟子たちはこの聖霊なる御方を心中に頂き、聖霊に満たされて、無学の凡人が、イエス様の十字架とよみがえりの証人として変えられたのです。イエス様は、世が与える平安ではなく、イエ弟子たちの心中に、イエス様の臨在を、形見として残されたのです。

 

5月5日・礼拝メモ

ヨハネの福音書14:1~14節

「わたしのいるところにあなたも」

「わたしが行って、あなたがたのために場所を用意したら、また来て、あなた方をわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなた方もいるようにするためです。

(ヨハネ14:3)

<はじめに>

l  今日は子供の日です。連休もあとわずかとなりました。十分な休息もとれたでしょうか。今日は一番たいせつな聖書の箇所からメッセージと言うことで、悩みのゆえようやくまとめてみました。聖書の箇所は受難週、最後の晩餐のテーブルスピーチです。このヨハネの福音書は共観福音書のマタイ・マルコ・ルカの福音書ができてから後、補足的に書かれたものですが、弟子達と最後に過ごした晩餐ほど、大切な聖書の箇所はありません。

l  「神を信じる」ことは当時の人々には問題になることはありませんでした。しかしそれに続く、「わたしを信じなさい」と言う言葉には。ユダヤ人指導者達は、煮えくりかえるような憎しみをぶつけていたのです。しかし主イエス様は淡々として、そこを逃げも隠れもしないで進み行かれたのです。主は十字架のために受ける自分の苦痛もわすれて、口を開かれたのです。当惑している弟子達を慰め、励まし、また彼らの目を天に向けさせて望みをお与えになったのです。困難と試練があっても、信仰と希望のあるところには勝利が来る。この天上のご奉仕が完成したら、私たちを天に携え上るために、再びこの世に迎えに来られる。これは主イエス様の世の締めくくりの再臨の時を示しています。主は、私たちを天の御父のところに運んで下さる唯一の道です。

l  天国について

イエス様は天国のことをわたしの父の家と言っています。イエス様にとって故郷の御国です。御父の臨在と支配の権威に満ち、御父と愛を満喫される所です。そこに私たち信仰者を招いて、共に交わってくださる、くつろぎのスペースです。小さなスペースではなく、信仰者にとっては途方もない、大邸宅を備えて招いて下さると言うのです。だれも天国を見た者はいません。天国に行って帰って来た者もいません。けれどもイエス様は何の躊躇もなく、私たちが住むべき住まいを用意して下さると言うのです。「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。あなた方のために場所をそなえに行くのです。」更に、あなた方のために場所を備えたら、また来て、あなた方をわたしのもとに迎えます。これはイエス様が再びお出で下さる再臨のことを言っています。イエス様が来られたら困るような生活でしたら、大変ですが、信じて主を受け入れた心は、この再臨のことがあるから、人生に希望と大きな期待を持ち、進むことができるのです。

l  道・真理・いのち

イエス様は「わたしは道を示します」、「わたしは真理を教えます」「わたしはいのちをあたえます」と行ったのではなく、イエス様ご自身が、ご自分の生き様を通して、御父に至る道、御父を知る真理、御父の持っていられる永遠のいのちなのです。

主イエス・キリストを知ることは神を知ることであり、地上で彼を信じることは、天国の御住まいを備えられた者です。おそらく、この御言葉を通して、信仰に導かれた方が多いと思います。20世紀に活躍した伝道者ビリーグラハム博士は、青年の頃、信仰に導かれながら、このお言葉の前に座って、この言葉を語る人は「真実な方か、大嘘つきか、どちらか違いない」それを突き止めるために聖書を読み出し、ついに彼こそ真実な神が遣わして下さった御子であること信じ受け取り、伝道に立ち上がって、世界中の人々を相手にメッセージを語る器になりました。

l  5月2日はわたしの入信記念日でした。灰色の都会の空と、むなしい心を持って、有楽町で下車した私でした。誰かと待ち合わせたのではなかったのですが、でもその日、最高の愛の化身、わたしは道であり真理でありいのちである方とお会いできた記念日となりました。あの時から今日まで47年間、大牧者に導かれて来ました。本当に感謝です。